アヴナーのティームの4人は、パリからアムステルダム行きの列車に乗ることになった。しかし、パリ中央駅のプラットフォームで、ロバートは立ち竦んでしまった。アヴナーは、どうしたんだと問いかけた。
ロバートは答えた。いや、深刻な疑問を提示したというべきだろう。
「われわれは任務のためにずっと戦ってきた。
だが、今までぼくは、アラブやパレスティナのテロリストたちとわれわれとの違いは闘争に臨むにあたっての『品位=品格』にあると信じてきた。イスラエル国家が、敵に対して道義的・政治的に優位に立ちえたのは、倫理観や政治的目的によって、厳しい自己抑制を課してきたからだ。
ところが、いままでわれわれは、普通の市民として暮らす人たちを何人も殺してきた。そのうえに、今度は若い女まで殺しに行けという。もうぼくは、前に進む(続ける)ことができない」と。
アヴナーは、ロバートに今回はいっしょに行く必要はない、休養をとれ、お前は疲れているんだ、と返答した。で、アヴナーとスティーヴとハンスの3人だけが、列車に乗り込んだ。
しかし、そのときロバートは道徳的ストレスによるアイデンティティの崩壊の危機に直面していたのだ。
アムステルダムの街には、無数の運河や河川が縦横に走っている。北海に面した低地にあるネーデルラントは、こうした無数の――ライン河水系をはじめとしする――水路と水運による物流システムでの優位によって、すでに500年以上も前にヨーロッパ貿易と金融、製造業での優越的地位を獲得した。
その水路に保有する船舶を浮かべて住居とするのは、1970年代には、若者や粋筋の人びと、さらには土地付きの住居を買えない階層にとっては、1つの誇るべき贅沢だという。今では、船で暮らすのは、一種のステイタスシンボルとなっている。何しろ、この住宅は移動手段=輸送手段でもあって、ヨーロッパ統合が進んだ現在では、船で暮らしながら、北欧から地中海まで自由に航海できるのだから。
さて、くだんの若い女殺し屋もまた、運河に浮かんだ洒落たボウトを住居にしていた。
そこにやって来たアヴナーたちは、サイクリングの格好だ。運河の船を訪れるサイクリストに扮している。平和でロハス(エコロジー)な光景だが、それは殺伐とした暗殺のシーンでもあった。
女殺し屋は、ボウトのキャビンで、放恣な格好でくつろいでいた。そこに、アヴナーとスティーヴが乗り込んできた。2人は、自転車の空気ポンプに擬した、強い殺傷力のあるエアガンを手にしていた。そして、美女の命乞いを無視して彼女の胸と首元に銃弾を打ち込んだ。最後のとどめは、ハンスが差した。
無慈悲な殺戮だったが、アヴナーは、あるいは死者への礼儀としてか、全裸の美女に死体に薄物ガウンをかけた。ところが、ハンスは激昂していて、そのガウンを剥ぎ取ってしまった。
ボウトのなかには、無残な弾痕が残る女の美しい裸体が残された。