アヴナーは、妻と娘の待つニューヨークのブルックリンに向かった。イスラエルにふたたび戻ることはないだろうと覚悟して。
ところが、妻に再会し、娘を腕に抱いても、心の平穏は訪れなかった。自分と家族を誰かが狙っているのではないか、監視や襲撃の魔手が迫っているのではないか。そういう恐怖感がまとわりついては離れなかった。
心配のあまり、アヴナーはフランスのルイの父親に電話して、誰かに命を狙われているのではないかと問いかけた。返事は、「少なくとも私に関するかぎり、君の命をねらう動きは関知していない」だった。
やがて、作戦をスーパヴァイズしてきたエフライムがやって来た。アヴナーに任務に復帰するよう求めるためだった。アヴナーは拒否した。そして、イスラエル政府に対する根底的な不信感を打ち明けた。
しかし、エフライムには同胞の来訪者として歓迎するから家に寄ってほしいともちかけた。だが、断られた。エフライムは、イスラエル国家装置の担い手としての役割にあくまで忠実に行動するように――エリート・キャリアをつうじて――プログラムされているのだ。地位と報酬を約束している政府によって完全に飼い馴らされていて、餌を与える者たちへの懐疑はないようだ。
個人としてのアヴナーは、彼自身とイスラエル国家――それゆえまた国家の指導部――とのあいだに越えがたい断裂が横たわっているのを感じた。もはや忠誠心はおろか帰属心すら拒否したいのだ・・・こうして安住の地、祖国を失ってしまった。まさに「祖国なしに流浪するユダヤ人」となったのだ。
この訣別の場面の背景に広がるシーンが印象的だ。
マンハッタン島の南端とイーストリヴァーを挟んで向かい合う、(ロングアイランド西北端の)ブルックリンのガントリープラザ公園からの眺めだ。遠くに国連ビルや摩天楼の群れが見える。
映像はさらに西に向かい、やがて世界貿易センターのトゥインタウワーが姿を見せる。何やら荒涼感が漂う光景だ。これがエンディングシーンだ。
ミュンヘンのテロルで始まった映像物語が、その28年後にこれまたテロルで崩壊・消滅するはずの建物のシーンで終わる。ここには、スピールバーグのきわめて鋭い暗喩と問題提起が含まれている。
スピールバーグは、アメリカ国家が推進するカウンターテロリズム・キャンペイン(アフガン遠征やイラク戦争)のただなかで、カウンターテロリズムの意味について鋭い問いを発しているのだろう。
政権が「国家の安全」とか「国民の平和」という耳触りのよさそうなキャッチコピーによって個人や市民集団を誘導して戦争政策や軍事政策を推進しようとするとき、自立性を求め、批判精神を備えた市民として私たちは、《軍事単位ないしは強制装置としての国家》を見据えなければならない。
国家の中央装置としての政府は、市民に対して、戦争や戦闘を遂行して「国家の権威」を誇示するために、市民個人・集団により大きな譲歩を求め、義務を課そうとしたがる。つまり、一方で「国民の平和と安全」をスローガンにしながら、国民を構成する市民諸個人に対して犠牲や権利の譲渡を迫ってくるのだ。
だが近代史を振り返ると、国家の側がスローガンに掲げた美辞麗句がそのまま現実となった試しはない。むしろ、戦争政策に多くの市民の資源や生命を注ぎ込んだあげく、脆い均衡の上にようやく成り立っている世界秩序や平和を動揺させ、より危険な情勢にしてしまうという結果がほとんどだった。
2003年からのアメリカ合衆国の中東政策や戦争政策が、悲惨な経過と結果の典型的な事例だ。
アメリカが同盟諸国家を引き連れて発動したこうした政策結果は何だったか。イラクやアフガニスタン、シリアなどの国家(相対的平和)がかろうじて成り立っていた秩序を打ち砕き、より危険な状況を生み出し、ISというような混乱の原因を新たに生み出してしまったではないか。
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