《のだめカンタービレ》
     が描くもの 目次
鼎談者の面々
全体から何を感じたか
千秋とのだめの人物像
音楽における「自由と必然性」
表現技術と「表現したい内容」
音楽の「時代精神」を読む
「音楽」の歴史的変化
「クラシック音楽」の成立
ソロとオーケストラ
ソロとアンサンブル
若者たちの挑戦
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  《のだめカンタービレ》の物語が描く世界について、原作マンガとテレヴィ・ドラマと映画などの映像とを取り交ぜて、この物語から何を感じたか、考えたかを、多角的に――多少の混乱や逸脱を交えて――綴ってみよう。私自身が3人のトーカーになりすまして、いろいろな視点から、座談風フリートーキングの形にして。

鼎談者の面々

この座談会には、以下の3人の対談者が登場する。
A(哲学者気取り)
B(歴史家気取り)
C(元やんちゃ坊主)

  3人とも、音楽に関して蘊蓄を語りたがるが、本当は門外漢である。だから、この物語を観て、相当に学んだし、教えられるところがあったらしい。

◆全体から何を感じたか◆

A: マンガの「のだめ」は先頃、ひとまず完結しましたね。ということで、あの物語の全体をつうじて感じたこと、考えたことを語ってもらいましょう。

B: クラシック音楽の世界のプロパーの人たちから見れば、あまり大したことがないかもしれないが、私自身はこの物語から、クラシック音楽について、相当に広く深いことを教えてもらった。あるいは、物語で描かれたことがきっかけになって、自分自身で学んだことも多かった。
  で、物語全体を通して感じたことはと言えば、「人びとにとって音楽とは何か」ということが主題だったような気がする。ここでいう「人びと」とは、世の中の人一般ではなく、物語に登場した人物たちで、それぞれにとって「音楽とは何か」が、かなり鋭敏に、そして多面的に問いかけられていたと思う。
  千秋真一にとって、音楽とは何か。この問題を彼自身が、のだめを中心とする多くの人たちとの出会いや葛藤、相互影響をつうじて、考え、悩み、試行錯誤していく、そういうテーマだったと思えるのです。
  まあ、主人公が千秋とのだめですから、この2人にとって「音楽とは何か」を自ら問いかけ、そして他者から問いかけられて、つまるところ、自分が求める音楽を追求していく、模索していくのです。


C: 原作マンガの形式がギャグ漫画なので、笑わせたり、くすぐったり、オチをつけたりしながら物語が展開する、でも描かれていることは、ものすごく深かったと思いますね。
  登場人物の多くがクラシック音楽の世界で学ぼう、生きていこうとする若者たちだから、幼い頃から(ということは、親や家族、指導者から、半ば以上に強制されて)楽器や声楽(歌)を学ばせられてきた人たちなんだ。
  だから、物心ついたときには、基本的な技法やセンスが、ぼくらが走ったり、飛び跳ねて遊ぶような感覚で身についている。それをもって音楽を演奏し、楽しむんだね。楽しみやテイストとして身に付いているんだ。
  けれども、それゆえにこそというか、あるいは自発性が生まれる以前に音楽を学んでいたがゆえに、思春期や青年時代になってから、自発的な問いかけとして音楽について悩むことになるんだ。
  「自由に楽しくピアノを演奏して何が悪いんですか!?」とのだめは悩み、千秋やシュトレーゼマンやオクレール教授に問いかける。
  音楽を美しく演奏しながら楽しむためには、厳しい基礎トレイニングが求められる。知識や理解力も深めていかないと…。
  あるいは、子どもの頃から英才教育を受け、自分にとっての音楽の意味を自発的に吟味することがなかった孫ルイは、相次ぐ演奏旅行という生活がいやになって、母親から離れてパリに逃げ出してきた。
  で、2人とも悩み傷つきながらも、結局ふたたびピアノ演奏の世界に戻っていく。それが一番なじんでいて、心が落ち着く世界だからか。
  ということは、楽しさや自由さ、快さというのは、ただ目の前の喜びというよりは、厳しい訓練を経て相当の高い技術を身につけて、一定の法則性や体系性をふまえたうえで、はじめて実感できるものなんだね。だから、進歩すればそれだけ、新たな深い喜びが得られるが、またより深い悩みや疑問も出てくる。
  そういう成長にともなう意識や目的の成長というものを描いている。

A: 私は、物語を、《日本での青春譚》と《ヨーロッパでの修行譚》との2つの大きな場面に分けようと思う。まあ、見たままの分け方だが。
  というのは、作者が描こうとする主題がそこで転換する、あるいは飛躍するんだ。
  個人的な好みとすれば、私は《日本での青春譚》の方が好きだね。自分の青春時代(物語とはずいぶん違うのだが)と引き比べてみて、青春の悩みや鬱屈、ワイワイガヤガヤの出会いや絡み合い、冒険や失敗、成長や飛躍などが躍動的に描かれていて。
  でも、やはりそこでも、千秋やのだめにとって「音楽とは何か」がいつも問いかけられている。峰君や三木清良にとっても。
  けれども、千秋は飛行機恐怖症と海恐怖症で日本から出られないわけで、そういう限界のなかで鬱屈しているのだけれども、それでも「今ここで自分にできる音楽、自分が求めることができる音楽とは何か」「何ができるか」を悩み問い続ける。
  一方、のだめは、いわば「型にはまった基礎訓練」が嫌で嫌で、「自分にとって音楽とは何か」を真正面から自分に問いかけることから逃げ回っている。自分にとっての内発的な目標・目的が設定できないんだ。
  この2人が出会い、絡み合うことで、何やら問題の設定というか、展開方向がおのずと定められていくようだ。
  《ヨーロッパ修行譚》では、一応の目標を定めた2人だが、経験し学ぶべき課題は山のようにあって、やはり悩み続ける。
  ただし、「自分が目指す音楽」「自分にとっての音楽」というものの輪郭ともいうべきものがだんだん形をとってくる。そのために何をしなければいけないかが見えてくる。のだめは、しょっちゅうぶれてしまい、オクレール教授や千秋の指導や影響、アドヴァイスを受けながら、それでも自分の道を模索して成長していく。

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