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C: 知識や基礎技術、技能ということと、音楽家が表現したい中身、内容との関係はどうなんですかね。
やたら自己表現をしたがるというのは、一見、自分のなかに「表現したい内容」、構想やイメイジがあるわけでしょう? だから、そのこと自体は、けっして悪いことではない。
むしろ、ただやたらに知識の習得や技術の訓練ばかりをやるけれども、自分が何を表現したいのかというものがないと場合よりもましなんでは?
その内容やイメイジをより正確に表現するためにこそ技術や知識が必要になるんですよね。
B: 確かにそうだ。けれども、技術や技法と内容=構想との関係というのは、なかなか難しい問題だよ。
たとえば、Sオケで峰君が、ベートーヴェンはとっつきにくいからといって、ジミー・ヘンドリクスのロック・ヴァイオリンのテイスト(外形だけか?)を取り入れようとしたでしょう。あれって、峰君自身がベートーヴェンの交響曲について、ある程度まとまったイメイジを持っていたとは言えないんじゃないの。
「ジミヘン」の外面だけを持ち込んだだけじゃないかな。要するに「見せ方」「魅せ方」の方法の問題だったんだ。
むしろ、内容については、「堅苦しかった」が、千秋の方がより深く、明確に理解していた。けれども、表現方法についてはあまり考えていなかった。
ただ、音楽の演奏の場合、どこまでが「演奏技術」「表現方法」の領域で、どこからが「曲の内容や構想」なのか、という区別が難しいのではないかな。とくにプロのように高いレヴェルでは、形式や技術と内容や構想とが一体化している。というか、門外漢の私たちには、区別できないでしょう。
A: 音楽の専門家に聞いてみたいですね。
B: 今のことと関連して、ヨーロッパ編での「のだめの落ち込み」は何だったのかという疑問があるんですよ。
コンセルヴァトワールに入学して指導を受けるんだけれども、「千秋先輩といつかピアノコンチェルトを演奏したい」という漠然とした目的・目標では、音楽院の厳しい研究や訓練には耐えられない段階に達したということだと思うんです。
そのコンチェルトで、いったいのだめは何を表現したいのか。観客に自分のどういうイメイジを伝えたいのか。自分は、その曲の何に感動しているのか。曲全体をどのように理解し、これまでの音楽界の理解や解釈に彼女は何を付け加えたいのか、ということが、課題として突き付けられたのだと。
でも、のだめは、その辺については考えてこなかった。
A: いや、考えてこなかったわけではないでしょう。ただし、オクレール教授が指摘するように、「楽譜には作曲者のいろんな想いや意図が込められているのに、君は本能的、感覚的にしかとらえない」ということなんだ。
まあ直感的にはとらえるのだが、作曲家の生きた時代とかその時代の音楽をめぐる思想だとか潮流というもの、時代の音楽技法などを考慮しないと、作曲家の意図(構想)や思いが伝わってこないということだね。
それは、もちろん、アナリーゼを背景知識として楽譜から読み取るしかないんだろうな。