さて、チャーリーがブルーナー医師と話し合っている頃、施設の建物の外に停めたおいたビュイックに1人の男が近づいてきた。まるで、その車が懐かしい友だちででもあるかのように。 車にはスザンナが乗っていた。
その男は手慣れた態度で運転席に乗り込んできた。そして、この車を運転したことがある、とスザンナに話しかけてきた。
そこにチャーリーが戻ってきた。
チャーリーは、見知らぬ男を車から追い出そうとした。
ビュイックから出た男は、車の内装が以前と変わっていることを指摘した。そして、ロードマスターの製造年と製造台数、性能を示す数値をスラスラと語り始めた。ものすごく精密な記憶力だ。
彼は、車の持ち主が父親のサンフォード・バビットだということも知っていた。そして母は1965年に死去したことも。一通り話し終えると、彼は混乱したチャーリーを残して、階段を昇り、男は建物のなかに入っていった。
チャーリーは、階段の昇り口まで出てきたブルーナー博士に「彼はいったい誰なのか」と尋ねた。「彼がレイモンドだ。君の兄だよ」という答え。
チャーリーは、驚きとともに、この男が自分の兄のレイモンドであることを知った。そして、施設でのレイモンドの日常生活を知ることになった。
チャーリーとスザンナはレイモンドの居室を訪れた。だが、いつも同じ環境のなかで、決まったスケデュールで生活するレイモンドは落ち着かなくなった。会う人たちも毎日決まっているのだが、その日はチャーリーたちがいた。
レイモンドは「自閉症」だという。
映画の会話のなかでは《 autism 》《 autic 》という言葉が頻繁に飛び交う。日本語で「自閉症」ということになる。
例によって語源的に見ると、ラテン語の《 auto 》の語尾に心的傾向を示す《 ism 》をくっつけた造語から生まれた。「アウトー」とは、「自己」とか「自己の力能や存在」を意味する。したがって、「オーティズム」とは、自己の内部に閉じこもりがちな精神的傾向あるいは病理ということになる。本来は「一般俗語」であって、精神医学などの学術用語ではない。
辞典によれば、自閉症とは、かなり限定された行動パターンの繰り返しに執着することによって、通常の社会的なコミュニケイションや他人との関係性が著しく阻害されてしまう精神的障害だという。
数少ないパターンの同じ行動様式を繰り返す。そういうことはじめて精神が落ち着くらしい。反復される単純な行動パターンや同じ生活環境のにあるということで、安心感を得てようやく自分らしさ(自己同一性)を保つことができるのだ。そのため、見知らぬ人びととの出会いとか居住場所の変化によって行動や環境が少しでも変化すると、ひどい混乱に陥ってしまう。そして、見知らぬ他人が接近することを極度に恐れるという。
だが、生活全般にかかわる脳の作用=負担がきわめて限定されているということで、自閉症者のなかには少数だが、天才的な――というよりも通常の人間では不可能なほど――記憶力、造形想像力、数理・演算能力を持つ者がいるという。つまり、通常人のようにあれこれの雑念に脳作用が分散することなく、脳の能力があげて、そういう一定分野だけの情報処理・加工などをまかなうので、驚異的なパフォーマンスを見せるのだ。
ということは、「普通の人びと」の脳は、普段、いかにつまらない物事の知覚や認知、思考・判断――そこには見栄や虚栄、虚勢や競争、駆け引き、自意識などが含まれる――に分散してしまっているか、ということかもしれない。つまりは気まぐれで集中力がない、ということだ。