第6章 フランスの王権と国家形成
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その後、王室は、王領地のなかで自立的なバン領主である城主(城砦領主)層の自立化や反抗を封じ込め、城主の従者である騎士や下級聖職者を宮廷の直属家臣(代官
Prévôt )として服属させることで城主層から引き離し、王領地の家政統治装置の担い手(直属官吏)として統制していった。もちろん弱小領主を王権の地方エイジェントとして取り込んだ。また、城砦領主の所領に結びついていた有力諸都市には特許状を与えて城砦領主の支配から切り離し、その代表(富裕商人層と騎士)をも王直属の家臣として掌握していった。つまり、王領地では地方領主高権の自立性を解体して王の大権
Souveraineté (最高封主の統治権)に統合し、多数の関税圏への分断状態を克服していった。
なかでも、飛び抜けて人口が多く、ヨーロッパの交易網で重要な地位を占めていたパリを支配したこと――つまり有力な商業資本との結合――は、その後の王権の伸長にとって決定的な意味をもっていた。この点が、ほかの有力諸侯の統治スタイルと大きく違っていた。このことが、やがて「領域国家」の形成に成功するためにきわめて枢要な条件になったと見られる。その後もフランス王位を獲得し、権力の拡張と集権化を進めようとした君侯たちは、パリ伯を兼務して巨大都市パリの経済的・通商的力量を権力基盤とすることになった。こうした動きは13世紀から始まったようだ。
王権は支配圏域を直轄地の外部に向かって拡張し、新たに王領地に加わった地区には王の代官 Prévôt royale を配置した。代官は在地で王の代理として各種の裁判権を行使したが、主な機能は王領地の財政収入の管理だった。都市の王代官は、請負い契約によって王領地からの貢租・税などの収入見込み額を前払いして権利を買い取り、課税・徴税の実務をおこない、実際の税収入と請負い額との差額をしっかり懐に入れた。それが代官職としての俸給だった。つまり、臣民から取り立てた税金のすべてが王室に納められたわけではなかった。
そのさい、税や賦課の額を商業計算にもとづいて把握し徴収する技能を持つのは、商業に手を染めた階層だけで、徴税を請け負う代官はほとんどがブルジョワ出身だった。代官職は身分でもあって、その職務と権限は代官となった人物のパースナリティに付随する特権の行使であって、代官の職務の遂行に必要な資金をその特権の行使によってまかなわなければならなかった。したがって、王権としては、代官をいったん派遣してしまえば、彼らを統制する行財政的手段をもっていなかったのだ。
王権は、代官が管轄した地区に王直属の巡察使 bailli を巡回派遣して代官職務の監督にあたらせた。彼らは、主に法務と貨幣経済に詳しいパリ周辺の小貴族で、授爵した富裕商人層も多く含んだ。巡察使の管区は複数の代官管区にまたがった。やがて、巡察使は派遣管区に定着して、王の命令・法令の執行や巡回裁判、上訴裁判、軍務への召集、貢租・税の徴収を掌握することになった。
こうして、王権は王領地の内部で地方行政装置を編成していくが、それはいまだ旧来の――固有の法を持つ――慣習法圏や地方領主の支配圏におおいかぶさる形のもので、王領地内部の地方的分立性を克服するものではなかった。ことに13世紀に新たに王が支配することになったフランス南部諸地方――ラングドック、プロヴァンス、ドーフィネなど――は、それまでずっと地中海の独特の政治経済的文化圏に属し、イタリア諸都市やカタローニュ伯の影響を強く受けてきた。
そのため南フランスは、13世紀末に名目上カペー王権の権威がおよぶようになってからも都市や領主の自立性が大きかった。そこで、王権は王直属役人として按察使 sénéchal
を巡回派遣した。按察使は地方の行財政権を掌握するというよりも、さしあたりは都市や領主などの自立的な地方統治機関に王権の意向を伝達し、地方統治の状況を中央に報告する役割を果たした。とはいえ、ことあるごとに王は王領地の領主層に対して最上級の封主として、彼らの臣従服属を執拗に求めた。
ところでこの頃、王室の家政装置と結びつきながら、あるいは機能を兼務しながらではあったが、法観念上は家政装置と別個に王権の中央統治装置が組織され始めた。直轄領=王領地を超えて王の権威をおよぼし、王権の統治圏域を拡張しようという試みだった。
13世紀の後半、ルイ9世の時代には、王会に代わって王の顧問会議 Conseil royale , Conseil du Rois と呼ばれる組織が形成され、さらに陪臣および領主、騎士および都市をめぐる訴訟や上訴裁判を審議・糺問する王の裁判所――すなわち王の大権を行使する法廷――が王顧問会議から独立し、高等法院 Parlement として組織運営されるようになった〔cf. 佐藤 / 早川〕。そのほかに財政装置としての会計法院 Chambres comptes や租税法院 Cours des aides も王顧問会議から分離独立した。
高等法院や会計法院(会計検査法院)、租税法院は、王の直轄地を超えた王国全体におよぶ統治権を行使する装置ということで、大権法院 Cours souverains と呼ばれる。3つの法院のなかでは高等法院が最も格式が高かったという。
これら「王国の統治組織」ともいうべき制度の創設と運用は、一般に王権の拡張の標識と見られる。
しかしながら、それらは王室の権威が後退すると王権に服属する装置ではなくなり、ときには有力地方貴族集団が王権に抵抗したり自立化するための砦となる傾向を見せることになった。「王権装置」と「王国装置」の対立ということだ。王国の装置は、ときとして王国に帰属する諸侯や諸都市の旧来の法=自立権を王権に対して主張するために立てこもる拠点となるということだ。
パリの王が統治するフランス王国の版図の拡大とは、王の権力の拡張であったが、それはまた王権が依拠する有力諸侯の同盟の参加者の増大ということでもあって、王権の衰退によって分解したり、諸侯同盟の圧力によって宮廷の運営が撹乱されたりすることをも含意していた。
このような中枢機構のポストの多くは、ブルジョワ出身の法曹家――彼らは王によって貴族に叙任され、貴族層としての意識や行動様式を身につけていった――によって占められた。彼らは、「王の権威や王令は地方的法慣習・特権に優越する普遍性をもつ」というローマ法の原理を統治にもちこんで、王権を最上位とする権力と法規範の序列関係を正当化していった。
ほかの有力君侯領でも、領地を支配するためにこのような統治システムが形成されていった。王領地の外部への王の権威の発揮は、有力諸侯と王権との特別の恩顧関係――事実上は臣従関係ではない――によって、つまり有力諸侯の統治システムをつうじておこなわれた。ゆえにほとんどの場合、王領地の外部では、たいていの民衆は領主を知ることはあっても、その上に立つ有力諸侯や、さらにその彼方に控える王に関心をもつこともなかったし、権威を感じる存在として知ることもなかったはずだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成