第6章 フランスの王権と国家形成
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16世紀には製造業と交易が急速に成長した。
とりわけめざましいのが、ノルマンディ、ピカルディ、シャンパーニュ、ラングドックでの毛織物、ブルターニュ、メーヌ、アンジュー、ボージョレでの麻織物、リヨン、トゥールでの絹織物だった。大西洋貿易の成長にともなってイベリア半島、ビスケー湾、イングランド、ネーデルラント、北欧を結ぶ貿易経路が発達し、リヨンは北イタリアと強く結びついてヨーロッパ金融の中継地として発展した。リヨンの年4回の定期市では、イタリアからもち込まれた絹糸、絹織物、胡椒などがネーデルラントやイングランド、ドイツ諸都市の商人と出会い、フランス産の毛織物や麻織物、金属製品などとともに買い付けられた。
マルセイユは帝政ローマ期からこのかた、地中海・レヴァント貿易に深く組みこまれていた。13世紀以降は北イタリア諸都市の通商支配の影響を――胡椒・陶器・絹などアジア・インド洋産品の中継地として――受けてきた。16世紀後半に、マルセイユ商人たちはレヴァントでの胡椒取引きの一角に食い込んだ。だが、レヴァント香辛料交易は、ヨーロッパ世界貿易の構造変動によってまもなく衰退しようとしていたのだ。
ルーアン、ナント、ラ・ロシェル、ボルドーなどの大西洋岸の諸都市はイングランドやネーデルラント、北欧に向けてぶどう酒や塩を輸出していた。ブルターニュやアンジューなどの地方は、主にネーデルラント諸都市の商人たちの采配下でイングランド向けに、またエスパーニャ経由でアメリカ大陸向けに亜麻織物(リンネル)を大量に送り出した。
フランス域内通商も成長したが、広大なフランス諸地方間の交易、たとえば地中海やアキテーヌとフランドルのあいだの通商は、地理的な距離から見ても当時の基準では立派な遠距離貿易=世界貿易だった。しかも、フランスは多数の関税圏へと分断されていた。つまり、地方諸都市や領主などが通行者や荷物に通行税や関銭を要求する在地諸特権を固守していたわけだ。
ヨーロッパで最強の王権が支配していたにもかかわらず、フランスは数々の障壁によって分断され、経済的構造の凝集性――その前提には支配的諸階級の政治的凝集・統合がある――がそれほど強固に組織されていなかったのだ。超巨大都市パリは、フランス経済と諸都市を総体として支配することはできなかった。たとえば、王国で最有力の金融・通商都市リヨンにはパリの支配がおよばなかった。リヨンは18世紀初頭までパリと拮抗し、張り合っていたという〔cf. Braudel〕。
してみると、フランス域内に中核=周縁関係があり、北部・北東部は王権と強固に結びつき、かなり強固な経済的凝集を組織しつつあったが、西部や南部、南東部は域外からの支配・侵食に対して脆い構造をもっていたようだ。たとえば、リヨンはヨーロッパ貿易の仲介地点となっていたが、定期市に集まる毛織物や麻織物は大半がジェーノヴァやフィレンツェなど域外商人たちによって買い付けられ、イタリアやレヴァントに売りさばかれ、あるいはエスパーニャ経由でアメリカに送られていた。
なかでもこの都市の金融業は、ジェーノヴァの商人の統制に全面的に従属していた。王国のなかでパリに次ぐ有力都市リヨンは、フランスの域外商業資本への従属の媒介環をなしていたのだ。フランス王国の経済は総体としてヨーロッパ世界貿易システムの権力構造に取り込まれていたのだ。ブルボン王権の統治権力とパリの商業権力は、ヨーロッパ世界経済の内部のサブシステムの1つとして作用――王国域内の統合作用として機能――していたのだが、より上位の外部の力が貫徹していたということになる。
ローヌ河流域からドーフィネ、プロヴァンスにいたる地帯以東は、13世紀までフランス王国の外部にあった。名目上は神聖ローマ帝国のサヴォイ伯領、プロヴァンス伯領に属していた。アヴィニョンとその近隣にはフランス王領の飛び地があったものの、概してフランス王の権威は到達していない地域だった。その有力都市リヨンもまた、そのような政治的環境のもとで経済的には北イタリア諸都市の商業・金融権力に服していた。
14世紀にようやくこれらの諸地方は名目上、フランス王国に属することになったが、王権にとっては域外の政治的・経済的影響力になびきながら強い分立傾向を見せる「やっかいな諸地方」だった。
ヨーロッパ貿易における総体としてのフランスの劣位は貿易構造に現れていた。輸入品ではイタリアの絹織物や武器、金属製品、香辛料などの奢侈品ないし付加価値性の高い工業商品を輸入し、その代価をまかなうために、イングランド、ネーデルランド、北欧などにぶどう酒、羊毛、麻、大青、小麦などの原料・食糧や安価な繊維品を輸出していた。そして、このような対外貿易は域外商人の強い支配を受けていた。ぶどう酒や農産物などの貿易はネーデルラント商人が統制していた。イタリアから域内有力都市への輸入経路はイタリア商人が掌握していて、フランス諸都市の商人は域内での売りさばき――上層商人は卸売り、下層商人は小売り――を担当していた。
とはいえ、16世紀末からは、王権が指導した高級毛織物や絹織物、金属器などの輸出、とりわけエスパーニャおよびそこを経由した大西洋貿易にはフランス北部諸都市の商人たちが進出し始めていた。
それゆえ、フランス王国の経済的再生産は、ヨーロッパ世界経済の《北西の極=ネーデルラント》と《南の極=北イタリア》との双極磁場によって制約されていた。ヨーロッパ商業におけるリヨンの地位はジェーノヴァの力によって形成され、それは域外権力によって支配された金融都市であったから、17世紀前葉にエスパーニャ王室財政が傾き始め、ジェーノヴァ商人の経済的権力が衰えると、ヨーロッパ世界市場での金融および貿易決済の結集点としての地位を失っていった。けれどもリヨンはフランス域内では、パリの商業資本の権力を拒む通商と金融の中心として、パリの支配力にとっては分裂要因であり続けた。
そして、ブルターニュからガスコーニュまでの大西洋沿岸、地中海沿海の諸都市は、パリよりもむしろネーデルラントを中心とする大西洋・北海貿易や北イタリア・地中海貿易の影響を受けていたようだ。
巨大都市パリは、能動的にヨーロッパ貿易・金融を自己中心的に組織化する都市というよりも、「パリは政治首都であり、王国の租税が集中され、莫大な富が蓄積される場所であり、《国民》の所得の著しい部分を浪費する消費市場だった」とブローデルは指摘している〔cf. Braudel〕ところが、大規模な世界貿易や金融決済のためのインフラストラクチャーが十分に備わっていなかった。
王権との距離がなかったせいか、パリの商人たちは自発的に結集して経済的・金融的権力装置を構築する方向では動かなかったと見られる。17世紀前葉まで、ひとたび成功したパリの貿易業者や金融業者の多くは、蓄積した富を世界貿易でさらに優位を獲得するために活用するよりも、王権の官職と土地を獲得することに関心を向けていた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成