第6章 フランスの王権と国家形成
この章の目次
百年戦争の時期をつうじて戦乱と疫病・人口危機のため、カぺ―家門が築き上げた王権による直轄領と諸地方の統制秩序は解体してしまった。イングランド王派勢力の撃退のあと、戦乱と疫病に席巻された王領地および諸侯領地――総じてフランス王国――の荒廃と統治危機からの統治組織と秩序の再建は、はからずも当面はヴァロワ朝王権による秩序(統治権威)の回復、統合によって主導される形で進められることになった。フランス王国を構成する有力諸侯の多数派同盟はヴァロワ王権を支持していた。
ところが、15世紀末には、フランスおよびヨーロッパ大陸の地政学的状況が大きく転換した。ヴァロワ王室によるフランス諸地方の統合が進む一方で、すでに見たように、ブルゴーニュ家が断絶し、遺領の大半をハプスブルク家(オーストリア大公家)が相続し、ルクセンブルク、ネーデルラントを支配することになったのだ。
このような状況に対応して、ハプスブルク家との対峙を意識したフランス王権は、イタリアの戦乱に介入するようになる。やがて16世紀には、イタリアの支配権をめぐっても、エスパーニャ王位を獲得したハプスブルク王朝と激しく敵対するようになった。両王権はいたるところで交戦し、あるいは小競り合いを繰り返した。かつてなく強大な2つの王権がヨーロッパ各地での優位をめぐって争うことになったのだ。
しかし、膨大な戦費のために16世紀半ば、両王室の財政と統治機構が破綻してしまった。王政の危機のなかでフランスの混乱と分裂が再発し、宗教改革=宗教戦争と絡み合いながら有力諸侯の勢力争いが繰り広げられた。そのなかでヴァロワ王朝は断絶し、運よく戦乱のなかから勝ち残ったブルボン家のアンリが王位を獲得し、フランス王国の統合を担うことになった。いくつもの王権による国家形成の挫折を下敷きにして、ブルボン王朝によって国民的規模での政治的・軍事的統合の枠組みが形成され始めた。
ここでは、ヴァロワ王権の膨張にともなう行財政組織の拡張、そして財政破綻と危機にともなって発生したユグノー戦争(宗派戦争)と王国の分裂、ヴァロワ王権の没落とブルボン王権成立の過程を分析する。
フランス諸地方の政治的統合をはかるため、王権は新たな状況をしたたかに利用した。この状況とは、ヨーロッパ世界市場の生成によってヨーロッパ諸地域が世界貿易圏に引き込まれ、その結果、商業資本の後ろには王権国家=領域国家が控えるようになり、強力な財政と軍事力を背景にもたない政治体や都市は没落せざるをえなくなったことである。その後のヨーロッパ通商戦争では、《国家ないし国民
nation という政治的組織》に結集できないブルジョワ集団はヨーロッパでの競争力をますます失っていった。
すでに見たように、フランスの有力諸都市は王権への統合を受け入れ、商業資本は王権の拡張――ことに直属官僚装置への登用――において中核的な役割を果たした。それゆえ、都市の支配秩序を強化するために王権は有力商人の門閥支配=寡頭制を支持したが、それは都市の下層民衆、つまりはギルドや零細職人、小商人たちの犠牲のうえに進められた。
王権は、宗教、文化、イデオロギー装置の側面でも王権の威信や権威を普及しようとした。ヴァロワ王権は、1438年のブールジュの王令によって高位聖職者の任命に関する監督権を拡大し、ローマ教会の組織に対する統制権を強めた。この動きは、ガリアの王の権力を教会組織の人事や運営におよぼすという意味で、ガリカニズム
gallicanisme と呼ばれる。それは、ローマカトリックの側でプロテスタンティズムに先駆けて展開された――教会組織に対する王権の統制をめざす――運動ともいえる。また、王の権威を誇示し、有力諸身分の関心を宮廷に引き付け、王国観念を広めるために、王権は大がかりな儀式や武芸大会を開催し、王室の権威を高めるための芸術を保護奨励した。
だが、王室の政治的・軍事的権威を支える物質的・財政的基盤の強化も必要だった。王領地の拡大と同時に、王権の生き残りのためには、名目上の封主権や宗主権ないし支配権がおよんでいる地域内から資金や資源を徴収するメカニズムをつくりだし、王室財政を豊かにしなければならなかった。軍備と戦争のための税や賦課金が――都市のさまざまな特権承認の見返りとして――課された。14―15世紀には、イングランド王派との戦費をまかなう課税システムの形成のために、王権の浸透した地方では、王の召集によって身分制集会としての総評議会 État généraux が開催されるようになった。
エタ・ジェネローを教科書的に「全国三部会」と意訳する場合が多いが、次の理由でここでは「総評議会」という本来の意味に近い形で訳すことにする。ところで「フランス王国」とは、この時代、パリの王を支持する有力諸身分(とくに貴族層)の同盟を意味する。だから、この同盟に参加していると自らを見なす各身分集団総体が、王の召集に応じてそれぞれ代表を選出して集合・評議する会合という意味合い、王国総体としての各身分の代表が集合する評議会という意味合いで「総評議会」と訳すことにする。
理由の1つめ :まず「全国」という語は、国民国家が確立されている場合にその領土全域を意味する語であるとすると、領土という制度もなく国民や国家の枠組みが形成されていない歴史的状況で用いるのは全くの誤りであるから。
2つめの理由 :「三部会」というのは、王の召集によって俗界貴族、聖界貴族、都市代表という3つの身分が別個に集会を開催して、王に助言や同意を与える仕組みを説明するための意訳である。ところが、この時期には、そのため王権による課税や賦課金についての評議では、貴族代表や聖界代表はまともな代表選出と集会を開催せずに済ませる場合も多かったため、実質的に機能し、王権と対峙していたのは都市代表集会だけだった。つまり「三部会」の実態をもたないことも往々にしてあるからだ。
戦乱や荒廃からの復興や秩序再建の軸をパリの王の権威に求める各地の諸身分――貴族、聖界貴族、都市代表――は、王の召集に応じて身分集会に参集した。それは、身分評議会をつうじて、支配的ないし有力な諸階級・諸身分を《国民》として政治的に結集・組織化するための端緒となった。
シャルル7世(在位1422-61)は、総評議会を召集し、さまざまな戦時課税への同意を取りつけようとした。召集されたのは、王への助言と援助の義務を負う聖界および俗界の貴族たちと都市の代表者たちだった。3つの身分の代表者は個別に王からの召集を受け、地方や都市ごとに身分団体ごとの集会をつうじて総評議会に代表を送り出した。ゆえに、王権の影響力の強い王領地や一部の諸都市を除けば、王の意向が簡単に通る相手ではなかった。
彼らはそれぞれ独自に身分集会を開き、王に対して別個独立の身分集団として助言や課税への同意を与えた。総評議会では、王が提案した税や賦課金に対する諸身分の同意が求められ、課税の名目や査定基準が審議された。法観念においては、税や賦課金の支払いは、王に対する臣民の援助義務として位置づけられるようになった。総評議会の権原にもとづいて設置された徴税官は王によって任命され、一般徴税区 généralité (徴税行政の単位管区)も設けられた。
他方で、地方評議会や都市に王権の課税権を受容させるための制度的枠組みがつくりだされることになった。王権の影響力の強い地域では、王が派遣した役人の主宰で地方評議会
État provinciaux が開催され、王の課税提案に同意を与え、徴税実務を請け負った。
だが、王権の影響力の弱い諸地域・諸地方では、王権の召集によって地方評議会が開かれたものの、なるほど王による課税をあからさまに拒否することはないとはいえ、有力な君侯や都市・地域の利害・慣習を色濃く反映した集会となり、税収のある部分は王室には収められず、在地の有力君侯や都市団体の手元に留保掌握されていた。王領地の外部では、王室の課税政策は地方君侯や都市の権力に依存して実施された。君侯や都市は、王権への忠誠義務を果たすことで王権からの特権承認や恩顧関係を引き出していたのだ。王室の税収は、王と地方権力との力関係に左右されていたわけだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成