第6章 フランスの王権と国家形成
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17世紀になると、ブルボン家によって域内統合を進めるフランス王権は、積極的に海外膨張を企図し、植民地「帝国」の形成を試みるようになった。それ以前には、域内の統合が進展しなかったためか、王権は海外膨張に注力することはなかった。植民政策、植民地政策の推移を見ておこう。
1520~30年代には、冒険事業家・商人たちが王から特許状を得て、北アメリカの探検と植民活動を試みたが、小規模なものにとどまり、中途で消滅してしまった。16世紀後半には、名目上はエスパーニャやポルトガルの勢力圏となっているフロリダやブラジル大西洋岸に植民を行なった。ことに1555年~60年には、マルタ騎士団がブラジルに遠征を試み、小規模な植民地を建設し始めたが、ポルトゥガル艦隊の攻撃を受けてこの植民地を失ってしまった。62年―65年にはフロリダに遠征隊を送ったが、これまたエスパーニャ艦隊によって駆逐されて、植民拠点を破壊されてしまった。
このように、フランス人による海外植民地の獲得活動は、個々の冒険航海者、商人の小規模なグループによって行なわれたが、王権の支援はせいぜい特許状の付与、小規模艦隊の派遣許可など名目上の対策にとどまっていたため、強力な競争相手の前にあえなく敗れていた。王権は大規模な直轄事業として、海外進出を企図することはなかった。もっぱら王国域内の分裂の克服、王権の権威の浸透に関心を向けていたようだ。
フランス王権の貿易=植民政策をめぐる戦略的視点あるいは一貫性の欠如は、東インド会社の歴史に如実に現れている。この会社は1604年に設立されたが、まもなく廃止された。しかし、17世紀半ばにヨーロッパ「列強諸国」の世界貿易と海外植民地獲得をめぐる競争が熾烈化すると、1664年に再設立された。通商拠点・植民地争奪戦への本格的参入の立ち遅れは、フランスにかなりの劣位をもたらした。
ところが、17世紀のヨーロッパ世界経済と諸国家体系では、少なくとも諸国家・諸王権の統治者の立場から見ると、エスパーニャやポルトゥガルはもとより、イングランドやネーデルラントなどの競争相手が次つぎに海外に植民地や通商・軍事拠点を獲得していたから、海外植民地圏を支配することなしにはヨーロッパでの勢力拡張はできなくなってしまったかのようになった。ゆえに、17世紀半ば以降の重商主義は、外国貿易の成長と植民地帝国の形成により明白に重点が置くようになった。
フランス王権は、海外探査と植民地建設をめざす冒険商人の諸団体に特許状を与えていくつかの会社を組織し、その活動を支援した。1605年、ヌーヴェルフランス会社はアカディア(ノヴァスコシア)沿岸のポール・ロワイヤルに、1608年にはケベックに植民地を建設した。その後、リシュリューの宰相就任とともに、王権は植民地の拡大に包括的に取り組むようになった。1627年には、カナダへの移民輸送を担当するヌーヴェルフランス百人会社を設立した。だが、カナダへの移民人口はきわめて少なく、1660年代末にやっと3000を超えにすぎなかった。
この時期の植民地経営のもっとも主要な目的は、ビーバーなどの毛皮(奢侈服飾品)の獲得と輸出だった。カリブ海での植民地経営と植民のために、26年にはサンクリストフ会社、35年にはアメリカ諸島会社を設立した。西インド諸島では、1627年にサンクリストフ島、35年にグァドループ島とマルティニク島、38年にサンルシア島へと植民地を拡大し、1659年にはエスパニョーラ島サンドマングを獲得した。カリブ海諸島植民地では、タバコ、さとうきび=砂糖、カカオ、綿花などの熱帯作物の栽培が行なわれた。同じ時期にアフリカ大西洋岸にも侵攻して、39年にはセネガル海岸に奴隷貿易の拠点を建設した。
17世紀後半、コルベールの登壇とともに、海外貿易と植民地の拡大政策は系統化されることになった。カナダへの移民が推奨され、移民人口は17世紀末には1万5000前後、18世紀半ばには6万前後に達した。移民人口と都市集落を支えるために、海外定住地では穀物栽培と牧畜を土台とする定住型農業が発達した。とはいえ、移民人口は小さかったので、定住地集落はカリブ海諸島への食糧や役畜、木材の供給拠点となるまでには成長しなかった。
17世紀末には、カリブ海に面したルイジアナに植民が開始された。西インド諸島では、アフリカから供給される奴隷の強制労働にもとづくプランテイションでの砂糖生産――サトウキビの栽培と製糖――が著しく成長した。ここでは、17世紀末には白人と黒人の人口がそれぞれともに2万前後に達し、砂糖の生産量は1674年に5400トン、83年に9300トンになった。砂糖は当時、高価な贅沢品だったので、フランス商人やプランターに巨額の利潤をもたらした。
フランス王権は、これまでネーデルラント人など外国商人に牛耳られていた西インド諸島との貿易から外国人を排除し、貿易の王室独占体制をつうじて組織されたフランス商人による排他的独占を追求した。これには、当然ことながら、艦隊の増強・増派がともなっていた。コルベールの植民地貿易政策の当初の目標は、1680年代にはほぼ達成され、年間200隻を超えるフランス船舶がカリブ海に向けて出航したという。
植民地での富と人口の増大、そして貿易の成長は、本国製造業の家具や什器、奢侈品などの工業製品に対する需要の増加を意味していた。また、西インド諸島での砂糖生産の急増にともなって、奴隷への需要も増大したため、王権は西インド会社やセネガル会社にアフリカとのあいだの奴隷貿易を独占させようとした。これらの特許会社は、大西洋岸アフリカ諸地方に拠点を拡大し、年間2000人の奴隷をアメリカに供給するようになった。だが、プランテイションの生産拡大と過酷な搾取による奴隷人口の消耗のため、奴隷需要はまかないきれず、奴隷供給におけるホラント商人やブリテン商人への依存状態は変わらなかった。
喜望峰以東のインド洋方面での植民地獲得と貿易は、再建された東インド会社(特許商人団体)が独占した。この会社は、1668年にはインドのスラートに商館を設立し、その後、72年にはポンディシェリー、73年にはシャンデルナゴールにも商館を建設した。
ところで、17世紀後半におけるフランスの世界貿易での戦略的地位の上昇を示すのは、エスパーニャ王国諸港とアメリカ植民地とを結んだ貿易で、平時においては公式上、ヨーロッパ諸国民のなかで最大のシェアを占めるようになったことだった。1686年、イベリアのカディス港からアメリカ植民地に輸出された商品総額のうち、4割をフランス商人が扱っていたという。その輸出商品の大部分を、ブルターニュやノルマンディ、メーヌの麻織物(リンネル)が占めていたという。ラテンアメリカからエスパーニャに帰還する船舶が運んだ貴金属の取り扱いでも、フランス商人が最大の比率を占有していた。
とはいえ、エスパーニャのアメリカ貿易ネットワークは、かなりの部分がイングランドとネーデルラントによって食い破られていたので、この成果はいくぶん割り引いて見なければならない。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成