第6章 フランスの王権と国家形成
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1630年代には、エスパーニャ王権と対抗するためにブルボン王権がおこなった対外政策は膨大な財政支出をともなっていた。財政収入の増大のために、王権は集権化と課税制度の強化を進めた。それは王国域内の諸勢力の反発や抵抗を招くことになった。
フロンド la Fronde ――投石派の民衆:転じてフロンドは反乱派を意味するようになる――の反乱とその鎮圧をつうじて、王権統治装置(支配階級)の内部での権力闘争と統治システムの再編、つまり中央政府装置と地方的利害の対立と調整、統合の強化がもたらされた。それは、ふたたび訪れた秩序の危機のなかで《最高会議=訴願審査官=地方監察官》という指揮系統が確立され、地方高等法院の独立性を突き崩して、地方の統制を掌握していく過程であった。
枢機卿からルイ13世の宰相(首席顧問官)になったリシュリュー(在職1624~42年)は、監察官による地方行財政の統合を推し進めながら、タイユと間接税を強化した。そのため、1630年代から40年代にかけて農民や都市民衆の反税闘争・反乱が各地で繰り返された。1636~37年のアングーモワ、ケルシー、ポワトゥー、ペリゴールなどでの広範な農民蜂起、1639年のノルマンディ「裸足党」の反乱、1645年のケルシー、ラングドック、ドーフィネの都市民衆の闘争。これらの闘争は、王権による中央集権化と統制、とりわけ租税の重圧への抵抗だった。地方高等法院も暗黙の支持、黙認の姿勢をとった〔cf. 中木〕。
過酷な課税の原因は膨大な戦費であった。ヨーロッパでフランス王権の軍事的優位を獲得するために、宰相リシュリューも、ルイ14世の宰相マザラン(在職1643~61年)も対外戦争を継続した。1626~30年にはイングランドと戦い、35―48年にはドイツの三十年戦争に介入し、57年にはイングランドとともにエスパーニャと戦争した。だが、継続する戦争のために王室財政はつねに巨額の借款をかかえていた。
そのため、1648年にはマザランが準備した王令は、官職の乱発的な新設と売却をおこない、従来は免税特権をもっていた法服貴族や官職保有者への土地課税を進め、ポーレット法を継続するのと引き換えに官職俸給や公債年金の支払いを停止することをねらうものだった。この政策案は、商業から身を引いて金利生活や官職俸給、地代収入に頼るようになった富裕層への負担を求めるものだった。すでに塩税制度は、現実の制度として、部分的に貴族層の免税特権を切り崩していた。それは法服貴族などの特権の剥奪につながりかねなかった。
《最高会議=地方監察官》体制による集権化に反発していた法服貴族の分派は、この財政危機をきっかけに王政「改革」を企図した。パリの高等法院、租税法院、会計法院は合同の集会を開いて改革案を提示した。改革案には、地方監察官の廃止、直接税の減免と徴税請負制の廃止、ポーレット法の再確認が含まれていた。この派は「現状維持派」ともいうべき層だった。
ところが、マザランはこの動きを強圧的に封じ込め、集権化をさらに推進しようとした。国務顧問会議、訴願審査官などの中央国家装置やパリ市政庁に結集した商人出身の貴族や富裕商人層はマザランの政策を支持した。彼らは、ヨーロッパ諸国民の通商競争で優位を確保することを求め、そのためには王権の集権化が必要だと認識していた。
しかし、王権政府が高等法院の弾圧に乗り出そうとして高等法院、租税法院、会計法院との衝突が起きると、パリの民衆と周辺の農民が蜂起した。その後、騒擾はプロヴァンス、ボルドー、ギュイエンヌ、ノルマンディなどに広がっていった。この騒乱がフロンドの蜂起だった。
民衆の反乱や蜂起は、王権や貴族、官職保有者層など特権諸身分全体に向けられたものだった。王権は民衆の憤懣を分立的な有力貴族層に向けようとし、有力地方貴族層は王権に向けようと画策した。
高等法院などの大権法院に結集した貴族たちの主要な所得は、土地=所領経営によっていた。つまり、貴族あるいは領主としての特権をつうじて農民から地代や税を取り立てていたのだ。多くの農民家計は地方領主によって搾取され、すでに窮乏していた。ゆえに、王権による収税権の拡大は、貴族の収益権をそのままにしておくとすると、こうした農民にさらに重い負担を課そうというものだったから、農民たちの不満が噴出し、王権ないし貴族に対する異議申し立てが始まろうとしていたのだ。
当然、農民の負担をこれ以上重くしたくない王権は、土地貴族層の収入特権を切り縮めようとした。一方、貴族層は王権への反撃のために、農民の不満や抵抗を王権とその行財政装置(地方監察官や財務監、徴税吏)に向けようとして反乱をけしかけ、それが王権に敵対するように誘導した。この戦術は、都市民衆についても適用された。貴族は、反乱派の農民を都市に誘導することさえした〔cf. Mousnier〕。つまり、王権と貴族とが農民階級に対する収奪権限をめぐって争うことになったのだ。
この反乱は大別して、1648~49年の高等法院のフロンド、1650~53年の貴族のフロンド、そしてそれらにまとわりついた民衆のフロンドという3つの位相をもっていた。高等法院のフロンドは、急激な集権化に対抗して地方の官職保有層(土地経営指向派)の利益を守ろうとする運動だった。貴族のフロンドは、没落の危機に瀕していた中小貴族層の運動であって、コンデ公やコンティ公を表層に押し立てていた。民衆のフロンドは重税や都市寡頭制への不満から生じた自然発生的な運動で、あれこれの騒擾や蜂起の背景音を奏でていたものの、明確な政治課題を示すことができなかったという〔cf. 服部・谷川編 / 中木〕。
パリの騒乱後、貴族フロンドは農民を焚きつけ、各地で反王権、反租税の蜂起を誘発して、王権の統治機構を麻痺状態に追いこんだ。1651年には、各地方から貴族反乱派(極守旧派)の代表がパリに集合し高等法院を中心に結集した。パリ高等法院は、守旧派地方貴族層とは一線を画しながら、独自の利害からマザランをパリの宮廷から追放した。だが、そののち貴族フロンドと高等法院フロンドは分裂・敵対するようになった。
というのも、高等法院の官職を確保している法服貴族・有力地主層は、地方での司法および土地支配において旧貴族層を追い落として上昇した階級であり、自らの利益のためには旧貴族層の復活と地方領主貴族層の分立化を阻止しなければならなかったからだ。パリ高等法院は旧貴族の集会を禁圧し、民衆反乱派も領主特権に固執する旧貴族の集会には強く反対した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成