第6章 フランスの王権と国家形成

この章の目次

冒頭(緒言)

1 幻想の「王国」と領主制秩序

ⅰ 中世ガリアの地政学的状況

ⅱ 領主制秩序と分立割拠状態

2 有力君侯群と王家

ⅰ 西フランクの君侯たち

ⅱ 王領地の統治構造と王権の拡張

3 王権の膨張と都市商業資本

ⅰ ヨーロッパ遠距離貿易とフランス

シャンパーニュの大市

ⅱ 貿易圏とフランスの分裂状態

ⅲ 中世統治秩序のなかの諸都市

ⅳ 王権と都市商人との権力ブロック

ⅴ ブルジョワジーと王権官僚

3 百年戦争と王権の膨張

ⅰ 支配圏域をめぐる君侯間の闘争

ⅱ 軍事システムの転換

主力兵種の転換と戦費

戦費と税制

平和の回復とコスト

ⅲ 所領経営の危機と農民民衆の抵抗

所領経営の危機と王権

ⅳ ブルゴーニュ、・・・の統合

4 荒廃からの復興と王権の拡大

ⅰ 統治機構の再編と王権の浸透

身分制諮問評議会の開催

身分制諮問組織なき集権化

ⅱ 早熟の「重商主義」と商業資本

ⅲ ヴァロワ王朝の膨張政策と破綻

5 ユグノー戦争とブルボン王朝の成立

ⅰ 統治レジームの再編と売官制

ⅱ 王権統治組織の構築と集権化

6 フランスの経済構造とヨーロッパ世界経済

ⅰ 農業への貨幣経済の浸透

ⅱ 製造業と世界貿易

ⅲ ヨーロッパ世界分業体系とフランス

ⅳ 遠心力と向心力の相克

7 ブルボン王権と諸国家体系

ⅰ 王権の階級的基盤と重商主義

ⅱ 諸国家体系と三十年戦争

8 フロンドの反乱と王権の危機

ⅰ 増税=集権化と諸階級の反乱

ⅱ 反乱の収束と再集権化

9 重商主義的政策と絶対王政の確立

ⅰ 王権中央装置の強化

王権による地方の統制と限界

行財政組織の肥大化

ⅱ 権力ブロックの再編と重商主義的政策

ⅲ 海外植民地と世界貿易の拡張

ⅳ 世界経済のなかのフランス

ⅱ ヨーロッパ諸国家体系と三十年戦争

  フロンドの反乱は国家(王室)財政の危機にそもそもの原因があった。そしてこの財政危機は、もっぱら王権の戦争と対外政策によって生じたものだった。ゆえに、ヨーロッパ諸国家体系という文脈から、ブルボン王権の動きを一瞥しておこう。

  16-17世紀のヨーロッパ諸国家体系は、ハプスブルク王朝の広大な「継ぎはぎの帝国」やフランス王国のように地理的に巨大な王国から神聖ローマ帝国の(その数200以上におよぶ)小さな領邦国家まで、さまざまな王権や政治体が、そのときどきに変動する同盟を形成しながら入り乱れて対抗し合うという構造だった。
  そのなかでフランス王権は、ヨーロッパにおける自らの優位をめざして、攻撃的な対外政策・軍事政策を展開した。とくに16世紀前半からは、フランスを取り囲むハプスブルク王朝の支配地、エスパーニャとドイツ、オーストリアでの権威の切り崩しは、戦略的に必要でもあり、また王と宮廷の強迫観念になっていたようだ。ゆえに莫大な軍事費を費やすことになった。
  ヴァロワ王権は、1521年から20年以上にわたってイタリアでの優位をめぐって神聖ローマ皇帝と戦争を続け、さらにドイツの宗教戦争にも介入した。軍事費の膨張によってヴァロワ家の財政は16世紀半ばに破綻した。ユグノー戦争では16世紀末、エスパーニャ王の軍隊がフランドゥルやラングドック、プロヴァンスから侵入した。ブルボン王権は、域内の狂信的カトリック派だけではなく、フランスを取り囲むハプスブルク王朝領地からの攻撃を撃退しながらフランス王国の統合を進めなければならなかった。

  16世紀末から17世紀はじめにかけて、エスパーニャ王権はフランドゥルの支配を強化してユトレヒト同盟諸州に攻撃を広げようとした。それを牽制するために、ブルボン王権は、ネーデルラント反乱諸州との同盟に加えて、バルカン半島から地中海東部に勢力を伸ばしたオスマントゥルコとも提携して、エスパーニャを威嚇した。フランス王権はトゥルコと軍事的に同盟し、トルコ皇帝の艦隊がイベリアや北イタリアに向けて地中海を航行するための寄港地を提供し、そのニースへの攻撃を支援したのだ。
  エスパーニャ王権の膨張を阻止しようとするイングランド王権もフランドゥルで攻勢に転じ、ポルトゥガル王国領を併合したエスパーニャに対して、ネーデルラントと同盟して私掠船艦隊による通商破壊戦を挑むようになっていた。しかも、エスパーニャは東南アジアでもネーデルラント艦隊のポルトゥガル領への攻撃にも手を焼いていた。じつはエスパーニャは、広大なポルトゥガル海外領土の併合とともにその敵と紛争まで抱え込んでしまい、すでに各戦線で手詰まりが生じていた。しかも王室財政がまたもや破綻しかけていた。だから、フランスの圧力に対処するため、1609年にエスパーニャはネーデルラントと講和条約を結び、その独立を事実上認めざるをえなかった〔cf. Kennedy〕

  ところが、神聖ローマ帝国(ドイツ・中欧)では、オーストリア王権(皇帝)とエスパーニャ王権の同盟が、プロテスタントに対するカトリックの宗教戦争という形で勢力を拡張しようとしていた。宗派敵対状況のなかで、1608年にはプロテスタント諸侯連合が、翌年にはカトリック同盟が形成され、相互に対立していた。その年、ラインラントのユーリヒ=クレーヴェ侯領の継承紛争が生じ、エスパーニャはカトリック同盟に、フランスはプロテスタント派に味方して介入し、敵対した。
  次いで1618年には、ボヘミア王位の継承問題とボヘミア貴族の反乱を発端として、神聖ローマ帝国全域を巻き込んだ戦乱が始まった。これが三十年戦争で、1648年まで持続することになった。⇒エスパーニャ側から見た三十年戦争
  1620年にはヴァイセンベルクでプファルツ選帝侯フリードリヒに勝利した皇帝フェルディナントが、反乱派ボヘミア貴族の首謀者を処刑し、ボヘミア王位をハプスブルク家の世襲とした。そしてフリードリヒを追放し、プファルツ選帝侯位にはカトリック同盟のバイエルン侯をすえ、プファルツでのエスパーニャ軍の駐留と占領を継続させた。すると、ハプスブルク王朝=皇帝の勢力拡張に脅えたドイツ諸侯、とりわけプロテスタント諸侯は域内外に支援=介入を要請した。
  ここから、ヨーロッパ大陸全域におよぶ争乱が展開していくことになった。優勢な皇帝派勢力が北ドイツ、バルト海方面におよぼうとしたため、デンマルク王権が介入し、次いでスウェーデン王権が参戦した。フランス王権にとっても、ドイツでのカトリック勢力の優位は、ハプスブルク王朝とエスパーニャ王権の優位を意味するだけに、プロテスタント勢力に加担することになった。
  1634年にネルトリンゲンでスウェーデン軍が皇帝・カトリック同盟派軍に敗れると、翌年、フランスはエスパーニャに対して公然たる戦争を宣言した。それまで、宰相リシュリューは、プロテスタント諸侯のハイルブロン同盟を隠然と牛耳り、財政支援や傭兵の派遣をつうじて非公然の闘争を進める一方で、ラインラントへの進軍で皇帝派を威嚇していた。北イタリアからネーデルラントにいたる「エスパーニャ軍道」を遮断するためだった。いまや、宣戦によって公然かつ本格的な戦争になった。

  16世紀のネーデルラント独立戦争の時期から、エスパーニャがフランデルンを含めたネーデルラントに軍事的攻勢をかけるのを妨害・阻止するために、イングランド艦隊やネーデルラントの艦隊が迎撃して、エスパーニャ北部沿岸からイングランド海峡一帯の航路を遮断してきた。三十年戦争期にもやはり、同様にエスパーニャからフランデルンにいたる航路は封鎖されたため、エスパーニャ王軍は地中海沿いに北イタリアのジェーノヴァにいたり、そこからミラーノやサヴォイ、フランシュ=コンテを経由してフランデルンに兵団と軍事物資を輸送する内陸経路を開拓した。この道を「エスパーニャ軍道」と呼ぶ。

  フランス王権の参戦でスウェーデン軍とプロテスタント派は態勢を立てなおし、劣勢を挽回する余裕ができた。37年にはユトレヒト同盟の軍がエスパーニャ領ネーデルラント総督軍を破り、ブラバントの交通の要衝ブレダを攻略した。翌年、スウェーデン軍はザクセン侯軍を破りボヘミアに侵入した。40年にブランデンブルク選帝侯を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルムは、翌年、皇帝との講和条約を破棄し、対スウェーデン戦線から離脱した。ドイツでの皇帝=オーストリア王権の優位は崩れ、ウィーンの宮廷はエスパーニャと距離をおくようになった。皇帝=オーストリア王権は停戦への道を探り始めた〔cf. 菊池〕

  一方、エスパーニャの継戦能力も深刻な危機に陥っていた。イベリアからネーデルラントへの航路はユトレヒト同盟の艦隊によって遮断され、フランドゥルに兵器や物資と兵員を送る経路が断たれた。1640年には、ピレネー地方にフランス軍が侵攻した。しかも、同じ年にエスパーニャ王室財政の危機のなかで、カタルーニャとポルトゥガルで反乱が勃発し、フンランス軍が介入してきた。域内の戦乱と危機に直面して、エスパーニャの講和への動きが始まった〔cf. 菊池〕。それ以後の戦闘は、和平交渉で優位を得るための小競り合いにすぎなかった。一連の講和交渉と協定は1648年、ヴェストファーレン条約に集約され、ヨーロッパ諸国家体系での新たな勢力平衡が確定した〔cf. Kennedy〕

  こうして、エスパーニャ王権の「帝国政策」は破綻したが、膨大な戦費によってフランス王室の財政も巨額の借金を抱えることになった。借款返済のために、統治体制の再編と財政改革が必要になった。王権は都市や農村に苛酷な税・賦課金を要求し、ときには商業資本の蓄積と政治的結集を阻害するほどだったが、しだいに貴族の特権を切り崩して土地所有による所得の源泉を王権の統制下に移すようになっていった。
  都市と農村への賦課は強化され、これに対して民衆の異議申し立てが続発していた。行財政改革をめぐっては、宮廷では商業資本の利害がより大きく反映されるようになっていたから、今度は土地貴族の権益と権限が切り崩される番だった。高等法院などに結集した貴族は追いつめられ、王権に反乱を起こすことになった。王権と貴族の関係を中心に階級関係を組み直す局面がやってきた。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

◆全体目次 章と節◆

⇒章と節の概要説明を見る

序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望