第6章 フランスの王権と国家形成
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フロンドの反乱は国家(王室)財政の危機にそもそもの原因があった。そしてこの財政危機は、もっぱら王権の戦争と対外政策によって生じたものだった。ゆえに、ヨーロッパ諸国家体系という文脈から、ブルボン王権の動きを一瞥しておこう。
16-17世紀のヨーロッパ諸国家体系は、ハプスブルク王朝の広大な「継ぎはぎの帝国」やフランス王国のように地理的に巨大な王国から神聖ローマ帝国の(その数200以上におよぶ)小さな領邦国家まで、さまざまな王権や政治体が、そのときどきに変動する同盟を形成しながら入り乱れて対抗し合うという構造だった。
そのなかでフランス王権は、ヨーロッパにおける自らの優位をめざして、攻撃的な対外政策・軍事政策を展開した。とくに16世紀前半からは、フランスを取り囲むハプスブルク王朝の支配地、エスパーニャとドイツ、オーストリアでの権威の切り崩しは、戦略的に必要でもあり、また王と宮廷の強迫観念になっていたようだ。ゆえに莫大な軍事費を費やすことになった。
ヴァロワ王権は、1521年から20年以上にわたってイタリアでの優位をめぐって神聖ローマ皇帝と戦争を続け、さらにドイツの宗教戦争にも介入した。軍事費の膨張によってヴァロワ家の財政は16世紀半ばに破綻した。ユグノー戦争では16世紀末、エスパーニャ王の軍隊がフランドゥルやラングドック、プロヴァンスから侵入した。ブルボン王権は、域内の狂信的カトリック派だけではなく、フランスを取り囲むハプスブルク王朝領地からの攻撃を撃退しながらフランス王国の統合を進めなければならなかった。
16世紀末から17世紀はじめにかけて、エスパーニャ王権はフランドゥルの支配を強化してユトレヒト同盟諸州に攻撃を広げようとした。それを牽制するために、ブルボン王権は、ネーデルラント反乱諸州との同盟に加えて、バルカン半島から地中海東部に勢力を伸ばしたオスマントゥルコとも提携して、エスパーニャを威嚇した。フランス王権はトゥルコと軍事的に同盟し、トルコ皇帝の艦隊がイベリアや北イタリアに向けて地中海を航行するための寄港地を提供し、そのニースへの攻撃を支援したのだ。
エスパーニャ王権の膨張を阻止しようとするイングランド王権もフランドゥルで攻勢に転じ、ポルトゥガル王国領を併合したエスパーニャに対して、ネーデルラントと同盟して私掠船艦隊による通商破壊戦を挑むようになっていた。しかも、エスパーニャは東南アジアでもネーデルラント艦隊のポルトゥガル領への攻撃にも手を焼いていた。じつはエスパーニャは、広大なポルトゥガル海外領土の併合とともにその敵と紛争まで抱え込んでしまい、すでに各戦線で手詰まりが生じていた。しかも王室財政がまたもや破綻しかけていた。だから、フランスの圧力に対処するため、1609年にエスパーニャはネーデルラントと講和条約を結び、その独立を事実上認めざるをえなかった〔cf. Kennedy〕。
ところが、神聖ローマ帝国(ドイツ・中欧)では、オーストリア王権(皇帝)とエスパーニャ王権の同盟が、プロテスタントに対するカトリックの宗教戦争という形で勢力を拡張しようとしていた。宗派敵対状況のなかで、1608年にはプロテスタント諸侯連合が、翌年にはカトリック同盟が形成され、相互に対立していた。その年、ラインラントのユーリヒ=クレーヴェ侯領の継承紛争が生じ、エスパーニャはカトリック同盟に、フランスはプロテスタント派に味方して介入し、敵対した。
次いで1618年には、ボヘミア王位の継承問題とボヘミア貴族の反乱を発端として、神聖ローマ帝国全域を巻き込んだ戦乱が始まった。これが三十年戦争で、1648年まで持続することになった。⇒エスパーニャ側から見た三十年戦争
1620年にはヴァイセンベルクでプファルツ選帝侯フリードリヒに勝利した皇帝フェルディナントが、反乱派ボヘミア貴族の首謀者を処刑し、ボヘミア王位をハプスブルク家の世襲とした。そしてフリードリヒを追放し、プファルツ選帝侯位にはカトリック同盟のバイエルン侯をすえ、プファルツでのエスパーニャ軍の駐留と占領を継続させた。すると、ハプスブルク王朝=皇帝の勢力拡張に脅えたドイツ諸侯、とりわけプロテスタント諸侯は域内外に支援=介入を要請した。
ここから、ヨーロッパ大陸全域におよぶ争乱が展開していくことになった。優勢な皇帝派勢力が北ドイツ、バルト海方面におよぼうとしたため、デンマルク王権が介入し、次いでスウェーデン王権が参戦した。フランス王権にとっても、ドイツでのカトリック勢力の優位は、ハプスブルク王朝とエスパーニャ王権の優位を意味するだけに、プロテスタント勢力に加担することになった。
1634年にネルトリンゲンでスウェーデン軍が皇帝・カトリック同盟派軍に敗れると、翌年、フランスはエスパーニャに対して公然たる戦争を宣言した。それまで、宰相リシュリューは、プロテスタント諸侯のハイルブロン同盟を隠然と牛耳り、財政支援や傭兵の派遣をつうじて非公然の闘争を進める一方で、ラインラントへの進軍で皇帝派を威嚇していた。北イタリアからネーデルラントにいたる「エスパーニャ軍道」を遮断するためだった。いまや、宣戦によって公然かつ本格的な戦争になった。
16世紀のネーデルラント独立戦争の時期から、エスパーニャがフランデルンを含めたネーデルラントに軍事的攻勢をかけるのを妨害・阻止するために、イングランド艦隊やネーデルラントの艦隊が迎撃して、エスパーニャ北部沿岸からイングランド海峡一帯の航路を遮断してきた。三十年戦争期にもやはり、同様にエスパーニャからフランデルンにいたる航路は封鎖されたため、エスパーニャ王軍は地中海沿いに北イタリアのジェーノヴァにいたり、そこからミラーノやサヴォイ、フランシュ=コンテを経由してフランデルンに兵団と軍事物資を輸送する内陸経路を開拓した。この道を「エスパーニャ軍道」と呼ぶ。
フランス王権の参戦でスウェーデン軍とプロテスタント派は態勢を立てなおし、劣勢を挽回する余裕ができた。37年にはユトレヒト同盟の軍がエスパーニャ領ネーデルラント総督軍を破り、ブラバントの交通の要衝ブレダを攻略した。翌年、スウェーデン軍はザクセン侯軍を破りボヘミアに侵入した。40年にブランデンブルク選帝侯を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルムは、翌年、皇帝との講和条約を破棄し、対スウェーデン戦線から離脱した。ドイツでの皇帝=オーストリア王権の優位は崩れ、ウィーンの宮廷はエスパーニャと距離をおくようになった。皇帝=オーストリア王権は停戦への道を探り始めた〔cf. 菊池〕。
一方、エスパーニャの継戦能力も深刻な危機に陥っていた。イベリアからネーデルラントへの航路はユトレヒト同盟の艦隊によって遮断され、フランドゥルに兵器や物資と兵員を送る経路が断たれた。1640年には、ピレネー地方にフランス軍が侵攻した。しかも、同じ年にエスパーニャ王室財政の危機のなかで、カタルーニャとポルトゥガルで反乱が勃発し、フンランス軍が介入してきた。域内の戦乱と危機に直面して、エスパーニャの講和への動きが始まった〔cf. 菊池〕。それ以後の戦闘は、和平交渉で優位を得るための小競り合いにすぎなかった。一連の講和交渉と協定は1648年、ヴェストファーレン条約に集約され、ヨーロッパ諸国家体系での新たな勢力平衡が確定した〔cf. Kennedy〕。
こうして、エスパーニャ王権の「帝国政策」は破綻したが、膨大な戦費によってフランス王室の財政も巨額の借金を抱えることになった。借款返済のために、統治体制の再編と財政改革が必要になった。王権は都市や農村に苛酷な税・賦課金を要求し、ときには商業資本の蓄積と政治的結集を阻害するほどだったが、しだいに貴族の特権を切り崩して土地所有による所得の源泉を王権の統制下に移すようになっていった。
都市と農村への賦課は強化され、これに対して民衆の異議申し立てが続発していた。行財政改革をめぐっては、宮廷では商業資本の利害がより大きく反映されるようになっていたから、今度は土地貴族の権益と権限が切り崩される番だった。高等法院などに結集した貴族は追いつめられ、王権に反乱を起こすことになった。王権と貴族の関係を中心に階級関係を組み直す局面がやってきた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成