ある日、ウィルの住居の居間でテレヴィを見ながらマーカスは無意識に歌を口ずさんだ。
「 Kill me softly by his song …彼の歌で私をやさしく口説いて――日本語版では「やさしく歌って」か?――」と。
12歳の少年が歌うにしては、かなり「古臭いスタンダード」だ。ウィルは、歌わないでくれと注意した。
マーカスはふと我に返った。
「無意識に歌を口ずさんでしまうことがあるんだ。それで、からかわれたり、じめられたりする」と言った。
やはり、マーカスは学校でいじめられていたのか。そのうえ、毎日、母親の精神状態まで心配しているのだ。ウィルは何とかしてやりたいと思った。だが、子どもを持ったこともなければ、親身になって自分以外の人を心配したこともないウィルには、いい考えが思いつかなかった。
で、とりあえずは外見から、同世代の生徒たちから軽蔑されないような格好をさせようと考えた。シューズ店にいっしょに出かけて、流行の最先端のブランド・スニーカー(運動靴)を買い与えた。マーカスはすごく喜んだ。それを見て、ウィルはうれしくなっている自分を発見した。
だが、そのプレゼントは、マーカスをトラブルに巻き込んでしまった。
ある雨の日、彼のクールなスニーカーが盗まれてしまった。マーカスは泣きながら家に帰った。母親は土砂降りの雨のなかを靴もはかずに泣きながら帰宅した息子を質問攻めにした。そして、ウィルに買ってもらった高級なスニーカーを盗まれてしまったということが判明した。そして、マーカスが毎日放課後にウィルのフラットを訪ねていることも。
60ポンド(1万数千円)もするブランド品を12歳の少年に買ってやるのは、何か後ろ暗い狙いがあるのではないか。フィオーナは、怪しい38歳の独身男が少年に高級品をプレゼントするのは同性愛(性的な児童虐待)が狙いだ、と勝手に解釈してしまった。で、いきり立った。
思い込みと怒りにまかせて、フィオーナはマーカスからウィルの居場所を聞き出して、ウィルがクリスティーナと夕食を取っている小洒落たレストランに押しかけた。そこでウィルを前にして、言いたい放題に怒りをぶつけて息巻いた。罵倒したというべきか。
面喰ったのはウィルだった。彼とすれば、学校で孤立し、そのうえ母親との関係もぎくしゃくしているマーカスへの共感・同情・友情から、彼と付き合っているのに、とんだ濡れ衣である。
「マーカス、ぼくの家に通っていることをお母さんに言ってなかったのか?」とマーカスに聞いた。
マーカスの返事。「ああ、言い忘れていたんだ」
ウィルは、フィオーナの言い分に強く反論した。
「マーカスは学校でひどいイジメにあっているんだぞ。それも知らないで。精神的に不安定でキレやすくて、自分のことばかりしか見ないで息子のことを真剣に心配しないあなたが悪い…。
ぼくにマーカスと付き合うなと言うんなら、それでいいよ。その方がずっと楽だよ」
ウィルの反論を聞いて、フィオーナは自分がとんでもない誤解をしていたことを悟った。すると、息子ことを心配する母親の立場に戻った。
「わかったわ。私が間違っていたわ。でも、もうマーカスと付き合わないというのは、聞き捨てならないわ。あなたは、マーカスを見捨てるつもり?!」
というわけで、「母親公認」――母親御用達というべきか――の付き合い、友情となった。