この物語はこれからの日本でも参考になる。
というのは、今の傾向が進めば日本では2030年までには、独居老人をふくめて独りで暮らす人びとの数が、全人口の4割以上に達するという。おそらく離婚率の増加や未婚率の増加、高齢化による配偶者や同居者の死亡などで、独居家庭が異常な割合にまで達する見込みだというのだ。
なかでも、一番の問題は、高齢化による独居や夫婦単位での孤立という問題だ。この問題には、既婚者だろうが、未婚者だろうが、離婚者だろうが、おかまいなしに直面する現実になりそうだという。
政府は出生率を上げ子育てしやすい環境づくりへの対策を唱えてはいるが、女性の家事・育児負担を軽減したり実質的な男女平等化はできそうもないし、資本主義的な分配構造を変革できそうもないので、問題は深刻化するばかりだろう。
つまり、旧来的な生活単位としての家庭や家族にこれまでのように依存する生活様式は、このままでは成り立たなくなるわけだ。旧来型の家族という文明装置が機能不全に陥ろうとしているのだ。
そこで、今後、課題となるのが《生活=暮らしの親密な仲間づくり》なのだという。
もちろん、このコンパニオンは結婚や親子関係、家族関係などによるものでも構わないのだが、既存の家族システムが解体していく傾向にあるのだから、結局のところ、家族という枠組み=制度を超えた次元で――あるいは家族のありようを組み換えて――親密な人間関係、支え合いの仕組み・関係を形成する必要があるようだ。そこには、負担の押し付け合いにならないように、本音や要求の――それなりに抑制された――ぶつけ合いができる回路などが求められるわけだ。
してみれば、そういう関係、間柄を自ら能動的に築き上げていく、あるいは逆に受け入れるメンタリティや行動スタイルを、私たちは学びとっていかなければならない。
近代的社会関係――市民社会――の「最先進国」のブリテンやネーデルラントでは、この問題が、すでに30年ほど前(1980年代後半)から提起されているという。ネーデルラントでは中央政府が独自の解決政策――正規常雇用か非正規雇用か差による社会保障や分配の格差の縮小や家庭運営における性差の解消のための制度――を打ち出した。ところが、サッチャー保守政権が「庶民の苦しみや苦悩」よりも金融利得の獲得を優先したために、ブリテンでは対策がかなり遅れているという。
むしろブリテンでは、長きにわたって国民保健制度NHSの財政危機や公教育・学校制度の深刻な危機に直面している。
先進諸国では核家族化という形で生活単位を小さくし、人びとを分子化・原子化しながら、他方で社会福祉や年金制度によって砂粒化した人びとの暮らしを社会化する仕組みを組織してきたが、このやり方は経済成長の停滞と財政・金融危機のなかで限界にぶつかっているように見える。
という意味では、ブリテンは日本の「お手本」ともいうべき存在だ。
そのブリテンを舞台とする映画作品『アバウト ア ボウイ』は、コメディタッチで、この問題のある断面を描き出したものだ。エンターテインメントだが、観ている間に、何やら背中が寒くいなりそうだったり、逆に、ああ、こういうスタイルも必要なのか、という感慨を抱いたりする。