この映画では、主人公の1人、マーガレット(マギー)・エレノア・ウォードはクイン法律事務所( law firm )のアソシエイト弁護士として、キャリア・プロモウション(昇進・出世競争)にも余念がない。とりわけ、次期パートナーへの昇格をめぐって、もう1人のとびきり有能な若手弁護士と競っている。
どうやら、法律事務所(法律会社と呼ぶべきか)も、普通の営利企業と変わりがないらしい。企業としての利益や業界での競争での優位獲得をめざしている。
そこで、アメリカの小説や映画などによく登場する法律事務所という企業組織の特徴をざっと見ておこう。
ここで登場するような大規模な法律事務所は、 the law firm という。ファームは営利企業、法人会社組織ということだ。つまりは、経営や組織運営での役割分業と権限・地位の明確な階級制によって組織され成り立っている団体だ。
もちろん、たった1人または2人くらいの弁護士がこつこつと営んでいる事務所もある。また、数人の弁護士と彼らに雇用される秘書や事務員、専門調査員の若干名からなる事務所もある。
合名会社のような組織もある。弁護士がそれぞれ自立的な経営者として固有の限られた責任範囲と権限をもちながら、共助的な団体を構成する事務所を構成する場合だ。
しかし、ここでマギーが所属する法律事務所は、「パートナーシップ」(共同経営陣)によって設立・運営される会社組織だ。会社内部には厳格な階級制と分業が敷かれている。
まず経営陣は、パートナーと呼ばれる指導者の集団で、出資者であり会社の取締役(ディレクター)だ。大きなローファームでは、そのなかにも、ごく少数のシニアパートナー(上級経営者)とジュニアパートナー(下級経営者)との役職=地位の差が設定されている。
彼らは全体として、彼らの指揮命令のもとで訴訟などの法務の実務を分担して担当する弁護士を使用人として雇用する。この雇われ弁護士をアソシエイトと呼ぶ。まあ、助手的な協力者としての弁護士というところか。徒弟制にも似た呼び名だ。
パートナーたちは、ほかにも秘書や調査員、公認会計士(CPA)、経理専門家、一般事務員(オフィスクラーク)などを雇って、専門家・細分化された仕事を分担させる。アメリカの公認された税務会計――日本の税理士の仕事――は、会計・税務専門の法律事務所か担っている場合が多い。
その全体を経営者として掌握・統制するのがパートナーだ。
パートナーはしかし、すぐれた法律家であると同時に敏腕の経営者でなければならない。その両方の資質を備えた仲間が多いほどよいが、だいたいは法廷弁論にすぐれた弁護士と経営や財務に明るい経営者弁護士とに分かれるようだ。
それにしても、ローファームを会社として成長させ、業界での競争的地位を上昇させるためには、すぐれた人材の発掘と育成が必要だ。そこで、雇い入れた数多くのアソシエイトを競争させ、そのなかから有能な「やり手弁護士」や「やり手経営者」として頭角を現した人材をパートナーの仲間に引き入れて、経営陣の活力・能力を維持増大させようとする。
ゆえに、大手法律会社では、有力な法科大学院( Graduate Law School )を修了した成績優秀者をスカウトし、厳しい競争に投げ込み、キャリア競争に駆り立てる。もちろん、名目だけの学歴だけでなく、実務能力や知識の深さを評価して採用することもある。
ところで、アメリカの法律事務所には、刑事および民事訴訟や行政訴訟だけでなく、税務(税法務)ならびに財務会計法務専門、特許法務専門の大手法律事務所がある。日本のように、会計士(監査法人)とか税理士や弁理士などの縦割り型の事務所ではない。同じ法律専門会社のなかの専門分業なのだ。
とりわけ大企業( public company :株式公開企業)のコンサルタントとしては、税務会計、財務会計は大手法律事務所=ローファームの仕事なのだ。
大企業のほとんどは「パブリックカンパニー」だが、ここでパブリックとは行政上の公共という意味ではない。株式公開をして社会全般から資本を集めて経営資本を調達するという意味だ。もとより、そういう意味で社会の公器であって、社会的・公共的責任を負うことになる。
これは、アメリカの連邦政府や州政府が、日本のような「縦割り官庁」になっていないからだ。日本では、弁護士や公認会計士、税理士、弁理士などを、それぞれ法務省や財務省(そのなかでも会計全体と税務会計とを区分)、特許庁などの中央官庁の各セクションが、いわば縦割り的に「公認・許認可」「指導監督」するようになってきた。
しかしアメリカでは、法務の実務家たちにより総合的・戦略的な対応を、企業も国家も地方政府も求めてきたように見える。
アメリカでは、企業としての法律事務所は、顧問先の企業と密接に結びついて、熾烈な利潤追求競争、営利原理を追求している。まさに社会ダーウィニズム、適者生存、逡巡者、脱落者を蹴落とす階級闘争社会だ。
けれども一方で、こうした組織とそれに属す個人のうちには、有能な専門家としての知識や技術の担い手として、1か月や1週間のうちの何時間かを、社会的弱者の権利擁護とか救済のために無償でサーヴィスを提供しているものも数多い。まあ、皮肉な見方をすれば、金持ちエリートの「贖罪行為」、熾烈な営利競争の醜悪さを隠す「イチジクの葉」とも見られる(費やす時間の割合から見れば)が、社会的な献身の姿勢は見事だ。
ヴォランティアとして貢献する真摯な態度は、一見に値する。
露骨な階級社会、メリトクラシー、格差社会だからこそ、そのカウンターウェイトとしての博愛的な行動スタイルが生まれるのかもしれない。博愛活動は「フィラントゥロピー」とも呼ばれる。それは人類愛ということで、
philanthropy とは、ギリシア語の《愛 philo +人類・人間 anthrop 》でできた合成語だ。
では、映画の物語に入ろう。