「スティーヴン・ケレンvsアルゴ・モーターズ事件」の被告側の主任弁護士がマギーとなったことは、ウォード夫妻(タッカーとエステル)にも伝わった。タッカーはマギーに担当を降りるように求めたが、マギーにはその気がない。むしろ、父への反感と出世欲に駆られて、ますます決意を固めていった。
夫と娘とのあいだに板ばさみになったエステル。父と娘が法廷で敵味方に分かれて互いに攻撃し合う、そんなことになれば、父娘の仲はさらに険悪になってしまう。彼女はそのことを恐れた。
エステルは夫のタッカーに何とかならないかと掛け合ったが、タッカーには身を引く気配はない。大手自動車企業の設計ミスや欠陥隠しによって、市民の家族が死傷したことを、司法の場で批判し追及する好機だと考えていたのだ。重大な過失責任を認めず、ユーザー=被害者の訴えや苦悩に目を向けず、耳を貸さない大企業の横暴を暴き出さなければならない、と。そうした批判精神には、エステルも共感していた。
そこで、娘のマーガレットを説得しようとしたが、無駄だった。エステルは深い苦悩に陥ってしまった。 そんな母を見たマギーは、ある日、仕事の合間を縫って、母を訪ねた。
エステルは、ヴォランティアとして、近所の保育園で仲間とともに壁画を描いていた。2人は、保育園の建物の屋上に上がって話し合った。母は娘に、ふたたびアルゴの担当を辞退するように求めたが、拒絶された。むしろ、マギーが「自立した女性」のつもりになって、母を「一段高いところ」から説得しようと試みた。
タッカーのこれまでの、夫として、父としての不誠実や身勝手さを非難した。それがとりわけ母を苦悩に追い込んだ、と。その姿勢は、そんな夫を許容してきた母への「苛立ち」をも表していたようでもあった。
しかし、エステルは、そんなタッカーを許し、支え続けたのは、自分自身の選択(価値観・人生観)なのであって、娘といえども、その領域に土足で踏み込むような言い方は間違いだと反論した。マギー自身の価値観や人生観を持ち込んで、エステルの生き方を「みじめ」だと決めつけるのは、間違いだと。
エステルは、タッカーと同じ社会的・政治的価値観を共有し合っているし、愛も続いているのだ。多少家庭生活には問題があるけれども、そんな夫を受け入れて支援しようとしてきたのだ。
だが、マギーは譲らず、自分の価値観や人生観を強固に主張し続けた。結局その日、母と娘は口論して別れることになった。
マギーは、今回の事件にかなりむきにあってのめり込んでいる。普段は冷静で聡明な女性なのだが、父への反感が絡みついて、感情的になっているようだ。
数日後、事件の予備審問が開かれた。
これは、陪審員を前にしての本番の審理の前に、裁判長が双方の弁護士を呼んで、争点(問題の範囲)の整理や、証拠や証人の採用範囲を絞り込むために、予備的な審問だ。双方の代理人が事前に法廷に提出した準備書面をもとにして、それぞれが取り上げようとしている論点、採用を請求している証拠や証人について、裁判長が主導して方針の決定をおこなうのだ。陪審制審理の本番を前にして、原告・被告双方の代理人が、まあ裁判長を審判者として要求をぶつけ合うわけだ。
これによって、裁判の短期化や効率化がはかられる。
アングロ・アメリカン法システムでは、民事訴訟は、いってみれば「対等な市民どうしの論争」という形式上の建て前をとるので、いわば中世の騎士どうしの「決闘裁判」のような方式にも見える。つまり、互いに相手に決闘場所(論点)や武器(証人や証拠)を示し合い、対等な条件で戦いの準備をさせるようにするのだ。
互いに相手に説明や論証を求める論点を提示し、証拠や証人の範囲を画定・開示するのだ。その時点でわかっている範囲でだが。
だが、もし審理始まってから新たな論点が提起され、新たな証人や証拠の採用を求める場合には、その段階で新たな申請(準備書面提出)をおこなって検討する。
しかし、実際には、原告・被告の関係は水平ではない。今回の事件のように一方が、巨大な寡占企業であって、他方が一介の市民であれば、訴訟(調査や証人・証拠検討)のために動員できる資金・人材(つまりは情報収集・分析の能力)の格差は歴然としている。
さて、この場でタッカーは、アルゴ社の車の構造上の欠陥をもたらした設計上のミス。過失責任を衝くつもりだった。だから、開発・設計の過程にかかわった関係者全員の氏名リストと現住所情報を提出するようにアルゴ側に求めた。マギーは反論したが、裁判長は原告側の要求を認めた。