このとき、イヴァンは本来ならば、フランス共産党パリ支部で演説をしているはずでした。ところが、今彼は、劇場で重要な任務をこなしていました。
たまたまパリに旅行に来たいたボルィショイ劇場総支配人が、「まさか」という顔でやって来たのです。イヴァンは総支配人をたぶらかしていたのです。
なにしろ、にせ楽団が演奏しているのですから。
頑迷な共産主義者ではありますが、かつてイヴァンは、歴代のボルィショイ劇場総支配人のなかで出色の能力を発揮していました。
音楽芸術やバレエなどに関する芸術的審美眼は飛び抜けて優れていたからです。その彼は、協奏曲の出だしを聞いて愕然としていました。
もちろん、こんなひどい演奏は許されないと嘆いていたのです。
けれども、先ほどまで、彼はこの悲惨な現実から逃れるように、彼は共産党パリ支部での演説に出かけようとしていました。「パリに来た目的はこれなんだ」と自分に言い聞かせながら。
ただ、その目的のためにアンドレイを利用した結果が、こんなひどい事態を招いたことに忸怩たる思いをしていたことも事実です。
それが、今、ボルィショイ劇場総支配人をたぶらかさなければならないほど追い詰められているのは、こういう経緯です。
悲惨極まりない演奏を聞いたイヴァン。「おお神様、本当に存在するなら、あの演奏を何とかしてください。奇跡を起こすなら今です!」
なんと、筋金入りの無神論の共産主義者が、神に祈ったのです。
そして、彼が劇場前の道路でタクシーを拾おうとしたそのとき、やって来たタクシーから、現在のボルィショイ劇場支配人が降りてきたのです。
彼は、休暇を楽しみに来たパリで「ボルィショイ管弦楽団のシャトレ劇場公演」を宣伝するポスターを見て驚きました。「そんなバカな」という思いで、今ここに駆けつけてきたのです。
だが、イヴァンにしてみれば、
現役の総支配人が劇場に入って演奏を聴けば、とんでもない事態になる。
楽団が偽物だとばれてしまう。
その衝撃たるや、国際的スキャンダルになること請け合いです。
ここは何とか、支配人の入場を阻止しなくてはならない。
イヴァンは支配人に走り寄って劇場のゲイトに案内しました。が、会場ホールではなく、倉庫に案内して閉じ込めてしまいました。