その夜、サーシャはメトロ(パリの地下鉄)で楽団員を見かけました。彼らは、電車のなかでアルバイトをしていたようです。
サーシャはマネージャー役のイヴァンを責めて「楽団員を集めろ」と命じましたが、もはやなす術がありませんでした。
その夜、トゥル・ノルマンというレストランに出向いたイヴァンは愕然としました。
イヴァンが30年前に立ち寄ったときの店とは、すっかり様子が違っていたからです。
店は今、北アフリカ系の移民の経営になっていて、昔の知り合いはどこにもいなかったのです。昔の面影もどこにもありません。
トゥル・ノルマンというレストランはずっと以前に廃業していたのです。
劇場事務局はそのことを知っていました。けれども、契約交渉のとき、イヴァンが公演の受諾条件として譲らなかったので、オリヴィエが仕方なく、別の名前になっているレストランにトゥル・ノルマンの看板を掲げさせて偽装していたのです。
じつは、トゥル・ノルマンというレストランは、当時フランス共産党パリ支部が運営していたのです。そこは左翼やコミュニストのたまり場で、そこでは毎晩、政治論議がおこなわれていたのです。
しかし、ソ連共産党からの影響が強かったためにイタリア共産党のように独自の政治戦略を描けなかったフランス共産党は、すっかり落ち目になり、いまやパリの中心街にあった建物や文化施設をすっかり売り払っていたのです。
たしかに80年代になっても、フランス共産党系の理論家は「プロレタリアート独裁」とか「中央計画経済」とかいう「化石化したような理屈」にこだわり続けていました。そのため、フランスや西ヨーロッパの状況に適応したプログラムを提示できずにいました。
それゆえフランス共産党は、東欧・ソ連の社会主義レジームの崩壊と、運命をともにしたのです。
「ユーロコミュニズム」は単なる幻想でしかなかったようです。
それでも、イヴァンはいまだにソヴィエト型革命理論を頑固に信奉し続けています。
だから、翌日、演奏会の時間にトゥル・ノルマンでのフランス共産党パリ支部の集会に参加して「モスクヴァの同志」からのイェールを送るつもりだったのです。なんという石頭!
じつはこれが、安いギャラでアンドレイの頼みをただちに引き受けた本当の理由でした。パリに行くことで、フランスのコミュニストと傷のなめ合いをすること、そんな感傷に満ちた目的を抱いてやって来たのです。