黒の狙撃者 目次
追いつめられた暗殺者
原題と原作について
見どころ
あらすじ
状況設定と人物配置
ドゥルーモアの惨劇
現実と虚構のはざまで
数奇な邂逅
リーアムの過去
ダブリンでの再会
安全保障局のコンタクト
先手を打ったKGB
ターニャ・マスロフスカヤ
ターニャとリーアム
養父との諍い、そして亡命
暗殺者の迷い
KGBの裏切り
よみがえる記憶
最初の対決
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炎のランナー
諜報機関の物語
ボーン・アイデンティティ
コンドル

現実と虚構のはざまで

  おりしもそのとき、KGBの車両が広場に突入してきた。車両に乗り込んでいるKGB少将、マスロフスキーが「やめろ!」と叫んだ。それでも、青年は反撃の姿勢を崩さなかった。そこに、KGBの学者、チェルヌィーが現れて、「もういい、訓練は終わった。見事な腕前だ」と言いながら、若者をおとなしくさせた。
  青年は銃を下ろした。だが、マーフィーのバーのウィンドウ越しに店主の姿を認めると、素早く銃口をあげてその眉間を撃ち抜いた。「裏切り」への報復だった。警官隊への通報者は店主だったのだ。飛び散る鮮血。
  この青年は、強度のマインドコントロールを受けているようだった。

  このドゥルーモアという街区は、ウクライナに設置されたテロリスト訓練基地で、一帯の建物や景観はすべてセットだった。住民たちもすべて演技者だった。もちろん警官隊も。彼らは、KGBの命令でシナリオどおりにロールプレイングしていたまでだ。
  すべては芝居だった。だが、青年の心理は、あくまでこの現場を現実と信じ、切迫感に取りつかれていた。そして、銃と銃弾も本物だった。青年の殺戮行動だけは、間違いのない現実だった。だから、一瞬で警官5人が射殺され、今またバーの店主が殺された。
  殺戮と死は本物だった。
  町と住民はフィクションだが、殺戮は現実だった。


  そこに、あの少女が駆けてきた。倒れている警官の1人に駆け寄ると、取りすがって泣き出した。父親だったのだ。
  あの優しい(と思われた)青年が殺した。事態を理解した少女は、青年を睨みつけた。だが、途方もない現実に戸惑っていて、眼差しの焦点は合っていなかった。鋭く、だが茫洋とした眼差し。
  殺された警官たちは俳優だった。少女の父親は優秀な俳優だった。だが、西側への逃亡計画を企てたために逮捕され、流刑地に送られる代わりに、ウクライナのドゥルーモア基地での訓練用の演技を強要されたのだ。つまり、1人の若者を冷酷な暗殺者に仕立て上げるためのロールプレイングに駆り立てられ、そこで処刑される運命を割り当てられたのだ。

  一連の訓練=惨劇のあとで、KGBの心理学者、チェルヌィー教授は自分の暗殺者養成プログラムの成果を将軍に得々と説明した。
  コードネイム「コヒーリン」で識別されることになった若者は、ほんの4年前までは、素直で温和で知性にあふれた青年だった。チェルヌィー教授は、無垢な若者を巧妙なマインドコントロールと訓練によって、それまでの人格や感情を封じ込めた別の人格=テロリストに育て上げたのだ。
  そのマインドコントロールの方法論に心理学的基盤を提供したのは、モスクワ大学の同僚、レーヴィン教授だった。レーヴィンは、ユダヤ系の市民で、ソ連当局やKGBの抑圧や迫害の脅しに怯えて、自分の心理学の研究成果をチェルヌィーに伝授して、暗殺者育成プログラムの開発に手を貸したのだ。

  しばらくして、基地の医療施設でコヒーリンの体調診断がおこなわれた。
  「特別な精神的緊張や抑鬱はない」「脈拍正常」「血圧は120と80」「平常と大きく違う発汗は認められない」――これが、あの殺戮の惨劇直後のコヒーリンの状態だった。
  若者自身が結果に驚いていた。
「あんな酷い殺戮をしたのに、まったく冷静で平常なんて! 私には、まともな心がないのか!? 人殺しの機会になってしまったのか」と嘆息した。
  この青年は、自分行動や心理を遠くから冷ややかに眺めることができる「心の眼」を持っている。命令に従順に殺戮を平然とし遂げる自分と、それを非難がましい冷ややかな眼で見つめる自分と。マインドコントロールのせいで、人格が分離してしまったのだ。多重人格が同時に自分の行動を見つめ、制御しているのだ。

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