チェルヌィー教授からの報告を受けたマスロフスキー将軍は、ターニャ暗殺の失敗から、コヒーリンはもはやKGBの暗殺装置としては使い物にならなくなったと判断した。するとどうなるか。
コヒーリンの顔を知っているターニャがブリテン当局の保護下に置かれた以上、早晩、コヒーリンの正体は発覚する。そうなると、ブリテン政府はソ連のKGBの権威失墜を狙って、コヒーリンの連続暗殺事件を暴露するだろう。それは、外交上の大きな失点だ。それは困る。
となると、KGB自らが、正体が露見する前にコヒーリンを抹殺するしかない。だが、コヒーリンはすこぶる優秀な破壊工作員で、隙がない。となると、親しい者が近づいて油断を突いて殺害するしかない。
白羽の矢は、チェルヌィーに立った。
マスロフスキーはチェルヌィーにコヒーリン暗殺を命じた。
この場面で、原作者ジャック・ヒギンズと映画制作陣が考えている、KGBの世界観が、描かれる。マスロフスキーの独白として。
「ブリテン政府当局は愚かだ。コヒーリンの動きは、彼らのアイアランド支配にも役立ってきたのに」と。つまり、暗殺者コヒーリンの暗躍を放置しておけばよいものを、というのだ。
力づくの抑圧と封じ込めこそが、アイアランド統治の方法だ、という見方だ。暴力的な抑圧支配を続けるためには、IRAの暴力や反乱は持続させておいた方がよい、という考え方だ。
だが、形式的なものにしろ「民主主義」を制度化した社会では、被支配者側の粗暴な反抗を誘導して、それを理由にさらに厳格で暴力的な抑圧・支配をおこなうという仕組みでは、統治は持続できない。社会の再生産システムが、そして何より統治者側の自己威信=道義=ヘゲモニーが崩壊してしまう。
支配者の側の道義の問題を理解しなかったことが、ソ連レジームの内部崩壊を招いたのだ、ということか。ジャック・ヒギンズは、政権の権力を維持するためにひたすら抑圧に頼るというのが旧ソ連当局の統治思想だったと見ているのかもしれない。
さて、ダブリンに戻ったチェルヌィーに教授は、いつもの公園にコヒーリンを呼び出した。次の指令を伝えるということで。その公園には、クロード・モネの絵のように水連が水面を覆う池があった。その池の畔で、2人は落ち合った。
だが、チェルヌィー教授の口から発せられたKGBのコヒーリンに対する「最後の指令」は、「死ね」だった。教授は無防備に近づいたコヒーリンに拳銃を向けた。
けれども、KGBの学術文化要員としてのチェルヌィーは、銃撃の訓練をあまり積んでいなかった。そこで、コヒーリンに隙を見透かされて銃を奪われ、池のなかに引きずり込まれ、頭を水中に沈められて溺死させられてしまった。
「KGBは俺を裏切った!」
多重化した人格が混濁して、すでに変調をきたしているコヒーリンの精神は、この怒りによって暴走し始めた。彼はKGBへの復讐を誓った。しかも、KGBによって仕込まれた暗殺者としての自分の技能を最大限駆使して、KGBの権威を全面的に失墜させる仕方でテロをおこなおうと決心したのだ。