ターニャはブリテン安全保障局の手で保護され、そのままアイアランドのダブリンまで空路で移動した。ダブリンの空港から、リーアムとフォックスが待つホテルまで行くことになった。
この移動ルートの情報は、政府組織内に潜り込んだKGB(あるいは協力者)によって把握され、マスロフスキーとチェルヌィーに伝達された。そしてコヒーリンのもとにも。
ターニャはホテルまで防弾処理を施した車で送られるが、玄関で車を降りて(護衛付きで)ロビーまでは歩く。その降りた瞬間を狙えば、狙撃できる。コヒーリンは、狙撃の準備を整えた。
ホテルの向かいのビルの駐車場から狙撃銃で狙う。これがコヒーリンの計画だった。人気のない駐車場で、コヒーリンは最新のカラシニコフ(望遠照準スコープ装着)を組み立てた。
やがてターニャを乗せた車がやって来た。コヒーリンはスコウプに接眼したまま狙いを定めようとした。ターニャがスコウプの向こうに浮かび上がった。だが、その瞬間、20年近く前のウクライナのドゥルーモアで会った少女の顔がちらついた。
その記憶を振り払おうとする間に狙撃のタイミングを逃してしまった。もう1度狙うチャンスがあったが、コヒーリンは舌打ちとともに諦めた。心のなかの何かが彼の狙撃を邪魔している。
KGBが育てたコヒーリンの人格とトーマスとしての人格(さらにこれに本来の自分も加わるだろう)とが、彼の精神のなかで交錯・混濁する。一方では冷酷非情の暗殺者、他方では温和で誠実な聖職者、さらにその両方を見つめながら、状況に応じて前面に表出させる人格をコントロールする第三の眼。
KGBが埋め込んだマインドコントロールのメカニズムが弱まってきたのか。コヒーリンは少し混乱して冷静さを欠いていたのかもしれない。狙撃の失敗の結果をチェルヌィー教授に報告するために大学を訪れた。
そのとき教授は、研究室で学生にドストイェフスキーの『罪と罰』についての講義(ゼミ指導)をしていた。そこに、コヒーリンは顔を出した。
別の部屋に場所を移して、チェルヌィーはコヒーリンをたしなめた。
「ここには来てはいけないと言ってあるだろう」
2人の関係を秘匿するため、他人の目があるところでは、絶対に会わないという約束事があったのだ。だが、コヒーリンは叱責を無視して、狙撃の失敗を伝えた。
「彼女の周りにはいつも人がいて、狙撃の機会がなかった。それにしても、あんたが『罪と罰』を講義しているなんて!
聞いてみたかったな。どんなことを教えるのか」と。
暗殺を命令する教授が人間の罪と罰をめぐるテーマを語るなんて、という痛烈な皮肉を込めた言葉だった。
「お前の感情が狙撃の邪魔をしたんじゃないだろうな」チェルヌィーは疑念を呈した。
「バカな、俺には感情がないんだろう。そう育てたんだろう、教授。
自己の感情がない者には罪を問えないんだろ。俺は意思のない道具だ。道具には罪を問えない。罪を問うべきは、その道具を利用する人間だ。違うか」
この些細な論争から、教授はコヒーリンに対するマインドコントロールが利かなくなってきていることを覚った。すぐに、この結果をマスロフスキー少将に連絡した。
■『罪と罰』■
さて、ドストイェフスキーの『罪と罰』は、主人公のラスコールィニコフが、歪んだ優越感と欲望に駆り立てられて、家主の老女を殺害し、その後、自分の罪悪感に苦悩しながら破滅に向かう物語だ。
ラスコールィニコフは、モスクワ大学法科の学ぶ学歴エリートだが、金がない。
近所の老女は小金持ちだが、学業優秀な自分に比べて世の中の役に立つ見込みはない。だから、優秀な学生の生活のために老女を殺して金を奪ってもよい・・・と。
彼は、他人の人生や命を自分勝手に秤量する尺度をつくり上げて、自分の殺意と犯行を正当化する論理を捏ね上げた。そして金のために殺人を犯す。だが、実際に人を殺した事実の重さに彼の心は押しつぶされていく。
ものすごく長い物語だが、私なりに乱暴に煎じ詰めればそういうことになる。