リーアムは演劇と心理学に習熟していたから、若い女性ピアニストに対する最も効果的なアプローチ方法を実行した。それは、自分の任務ということもあったが、彼女が「殺戮の被害者」側の人間であること――暗殺者としての過去を被害者の側からの視点で省察するため――も、影響していた。
ターニャは、パリ、ブリュッセル、アムステルダムなどの西ヨーロッパの主要都市での演奏会(協奏・共演も含む)をおこなっていた。リーアムは、すべての演奏会に出向いた。
最初の公演では、すばらしく大きく美しい花束を(手紙付きで)彼女の控室に贈って、自分の名前を印象づけた。次の公演にも大きな花束を贈った。やがて、演奏会のあとで、降りしきる雨のなかで、公演会場から出てくる彼女を待ち続けて出会い自己紹介した。
雨のなかをホテルまで、語り合いながら歩いた。ターニャは、リーアムの知性やウィット、音楽に対する造詣の深さを知って、かなりの好意を抱いた。
だが、若い女性へのソフトなアプローチはここまで。リーアムは、いきなりあけすけに、亡命を慫慂した。そして、亡命を望むならと自分の名刺(連絡先)を渡した。当然、自分への素敵な男性の接近が、じつは政治的目的によるものだと知ると、少しがっかりし、腹立ち紛れに、そのときはリーアムを追い返した。
事態の推移を考慮したマスロフスキー将軍は、ブリテン政府・情報組織が、今西ヨーロッパで公演旅行をしているターニャに接近してくるだろうと読んだ。KGBがそれを阻もうとすれば、コヒーリンにターニャを暗殺させるしかない。だが、できれば(利用価値がある手駒である)ターニャを生かしておきたい。
とすれば、西ヨーロッパから離れてロシアに帰還させるしかない。
というわけで、将軍は副官のベローヴァ中佐(女性)をターニャのもとに差し向けて「帰国」を促そうとした。ベローヴァは早速、フランス滞在中のターニャに接触して、「帰国しろ」という養父の勧告=命令を伝えた。
だが、西ヨーロッパでピアニストとしての名声・評価を手に入れる、せっかくのチャンスを中途で投げ出したくないと思うターニャは、帰国を拒否した。
マスロフスキー将軍は、自分がフランスに出向いて直接、ターニャを説得しようとした。
ところが、ターニャは言うことを聞かない。彼女は、一流のピアニストは誰でもそうなのだろうが、きわめて自立心が強い。自分の感性に忠実に生きようとする。
このあとも、南フランスやイタリアでのトゥアーが企画されている。そして、これまでの評価は上々だ。ピアニストとしての国際的評価・地位を獲得するためには、ぜひとも公演旅行を続けなければならない。
「私は帰らないわ」と養父に言い切った。
マスロフスキーは、強情な養女に思い切って強い圧力を加えようとした。
「これは国家の命令だ。お前の意思で左右できることではない。自分から帰国しないのなら、私の権限で強制送還する」
諍いをしたまま、ターニャは自室に戻った。
だが、絶望したターニャは、ホテルを出ていった。そのとき、亡命を促したリーアムの言葉が心によみがえった。そこで、彼が渡していった名刺の連絡先に電話してみた。リーアムが出た。そして、ブリテンへの亡命のための手順を教えた。
電車を乗り継いで、カレーまで行き、そこからフェリーでドーヴァー海峡を渡れ、と。ヨーロッパ共同体諸国のあいだの旅行は自由化されていたので、ティケットだけでブリテンに渡れるうえに、多数の群集に紛れることができるからだ。
ところが、ターニャのこの行動をマスロフスキー少将は読んでいた。娘の気質を誰よりも知っているから。
そこで、ダブリンのチェルヌィー教授に電話した。
「娘はブリテンに亡命するだろう。
我々は彼女の動きや行き先の情報を得ることができるので、それを知らせる。君には、それをコヒーリンに伝えてターニャを狙撃させてほしい。残念だが、コヒーリンの正体をブリテン当局に知られるわけにはいかないからな」