リーアムはトムに自分のおぞましい過去を語った。
リーアムは第2次世界戦争後、アイアランドで生まれ育った。母と父との3人暮らしだった。だが、母が癌で死ぬと、不況が続き貧しい国を捨てて、父子はアメリカに移住した。ボストンのアイリッシュ・コミュニティで快活なアメリカ人として育ったリーアムは、ボストンの名門大学に入った。
だが、まもなく父が死んだ。その父は、アイアランドにいたときから熱心なIRA(シン・フェイン党)メンバーだった。身寄りのいなくなったリーアムは、北アイアランドに戻り、ベルファスト大学の法科で学び、弁護士資格をとった。そして、そのまま北アイアランドに居着いて、弁護士としての生活を始めた。
仕事の多くは、ブリテン軍やプロテスタント(親ブリテン派で、当地の特権的な支配階級を構成し、カトリック系住民を差別抑圧した)によって、迫害されたカトリック系住民の人権の擁護や被害の救済に関するものだった。
リーアムは、ブリテンの支配と抑圧のレジームを肌で実感した。若者特有の正義感や批判精神に駆られて、彼はIRA(おそらくは過激な the provisional
:暫定派)に加盟した。やがて、デヴリンは恐ろしい暗殺者になっていった。だが、攻撃目標はブリテン軍将兵や武装警察だけに限定していた。一般住民、とりわけ女性や子どもに危害を加えることはなかった。
狙撃、潜入、爆薬、どんな手段を取っても、リーアムの攻撃と殺戮は完全だった。IRAの内部でも恐れられるテロリストになった。
ところが、IRAメンバーをを大量に逮捕・殺戮した武装警察隊のパーティーを狙って、とあるパブに仕掛けたはずの爆薬の時限装置が故障して、その2時間前に爆発してしまった。そのとき、パブではカトリック系住民の結婚式がおこなわれていた。花嫁とその家族、友人たち5人が殺された。
この失敗で、リーアムは戦闘意欲を失い、自分の行動を責めるようになった。「支配=暴力には暴力=抵抗を」という旗印は、すっかり色褪せてしまった。
戦闘員としては使い物にならなくなったリーアムの引退を、IRA指導部は受け入れて、アメリカへの移住を許可した。
だが、誤爆の悪夢は彼の脳裏から去ることはなかった。今でも週に2、3回は悪夢にうなされて、飛び起きる。だから、長身でハンサム、知的な風貌のリーアムに恋して近づく女性は多かったが、ほとんどは同棲してから1週間か2週間で逃げ出していってしまう。
リーアムとしては、何とかこの苦悩を解決したかった。暗殺者としての過去を清算して、人生の再出発を設計したかった。
リーアムの話を聞き取ったトムは返答した。このときは、KGBの指示命令が出ていなかったせいか、トムのなかでコヒーリンの人格は後景に退き、温和なトーマスの人格が前面に出ていたようだ。
「それほど敵意や殺意については、ぼくは理解できない。だが、君の立場に立って考えてみよう。
君の悪夢=罪悪感の根源はアイアランドでの活動にあるんだ。だから、そこに戻って贖罪のおこないをするしかないね。ちょうど、次年度、ぼくはダブリンの教会に司祭として赴任する。君もダブリンに来いよ。ぼくが手助けができるはずだ」
だが、リーアムはアメリカにとどまった。その後6年間、リーアムはボストンで弁護士活動の傍ら演劇の研究を続けた。演劇の研究は、役割演技による人格(ペルソナ)の分析と人格=心理のリフォームへの応用を探るためだった。
リーアムの演劇研究の背景:たとえばスタニフラフスキー演劇理論にあるように、劇中の役柄をより完璧に演じるためには、その人物のパースナリティをトータルにイメイジして、場合によっては生い立ちや家庭環境、人間関係をも想定し、その人物ならこういう心理状態や判断でこういうこういう言動を取るだろうと――人格・心理と言動との必然的な因果関係を――想定して演技をおこなうことが求められる。つまり演技は、言動にもとづく性格分析や心理分析をおこなって人物の人格や心理を想像し、そういう人格や心理になり切るシミュレイションとなるのだ。
このような演劇理論を援用して、1970年代のアメリカでは精神科(PTSD)治療や精神分析の一環として、クライアントにある脚本にしたがって役柄を演じてもらって、現在陥っている危機的な心理状態から脱して別の心理状態へ転換・移行させる余地(可能性)を生み出すという療法が試みられた。