北イタリアでは11世紀までには中世は終わり、初期近代が始まっていたのです。
ポー河の中流地域、北イタリアのロンバルディア(ミラーノ近郊)からエミーリャ地方にかけては、すでに13世紀から農業に資本家的経営が浸透していました。
運河や灌漑水路、土地改良、圃場の整備が大規模な投資によって進められ、小麦や米、果実など輸出用ないし域内市場向け商品作物の栽培がおこなわれ、農業設備や土地への投資事業が早くから発展していました。
ゆえに、土地を抵当にした融資も活発で、その分、地主や借地農業者は厳しい市場競争に巻き込まれていました。
それゆえにまた、有力な地主貴族のもとへの土地(耕地)の集中・集積も早くから進んでしました。富裕地主層は、農業への投資家ないし企業家として農場管理者を使って賃金労働者を雇い入れ、大規模な農業経営を組織していました。
農業で資本家的経営者と労働者とが向き合うという近代的で資本主義的な仕組みが、その頃から生み出されていたのです。
つまり、この地方の農民は賃金労働者で、彼らの内部には常雇い、季節雇い、日雇いという扱いの区別(差別)がありました。
最底辺の農民は日雇いとして、地方ごとの農繁期となる時季を追いかけるように流浪する生活を送っていました。
細々とした小規模な自営農業者も、大きな地主制農場の周囲にいましたが、しだいに減少していきました。
農具や馬とか種子を買うたびに借金を繰り返し、やがて彼らの土地や家屋は、厳しい競争のなかで債務=借金のカタに差し押さえられ、富裕な地主の手に集められていったのです。
貧富の格差や階級格差という近代の厳しい社会状況もまた、この地方ではいち早く始まっていたのです。
北イタリアでは、すでに遅くとも13世紀には「資本主義」が始まっていたのです。
しかし、14世紀後半にはヨーロッパ全域に何度かペストが流行し、人口の3分の1から半分が失われるという危機が訪れます。この危機にさいしても、ロンバルディアとエミーリャ地方は、近く豊かな田園地帯と食糧作物の栽培のおかげで少ない病死者ですみました。
というのも、米を中心に十分な食糧の備蓄と供給があったからです。
疫病による衰弱と死は、農産物の不作や飢饉のあとにやって来ます。
それ以前からの飢饉や食糧危機による栄養不足、それゆえまた体力と免疫力の低下によって多数の人口が衰弱死の危機に瀕しているときにやって来るのです。
ペストや天然痘、マラリアなどは、死に瀕する多数者に最後のとどめを刺しにやって来るわけで、それ自体ではそれほど多数の人口を奪うことはまれなのだといいます。