左派の強いイタリア社会党だけは例外で、平和主義を堅持し、政府の戦争政策には反対しました。
1921年、多数派の左派はイタリア共産党PCIを結成しました。
西ヨーロッパでいち早く誕生したこの共産党は、その後、多くの国でコミンテルンの指導で結成される「共産党(コミンテルン支部)」とは違って、ソ連の影響をあまり受けないで独立に組織された、ごく少数の政党の1つです。
しかし、この頃イタリアでは、戦争後の財政危機や文化的混迷のなかで、地方ごとの対立や階級闘争など、社会の断裂が明白になると、統合や結束を主張する右翼思想や国家至上主義が影響力を拡大し、そのなかからファシスト党が生まれました。
そして、右の極のファシスト党と左の極の共産党は激しく対立するようになります。
さて、エミーリャ地方の農村でも、地主と農民との利害と衝突と対立が先鋭化していきました。
国民的規模での、さらに国際的規模での市場競争の激化は農業にも波及しました。したがってまた地主の経営環境をも組み換えていきます。
耕地の集中や集約的利用、農業機械の導入、灌漑設備の整備や圃場整備、新品種の作付けなどのために多額の投資資金が必要になりました。
地主が競争に生き残るためには、こうした資金の調達が求められたのです。
他方で、農産物の価格変動の幅も大きくなり、地主も農業労働者もともに、気候による収穫量の上下と販売価格の変化の波に弄ばれるようになりました。
地主にとっては、投資資金の回収にはより長い期間がかかるようになり、その間のリスクも飛躍的に大きくなりました。
ほとんどの地主は、所有する土地・家屋を抵当にして、短期・長期の資金の借入れをおこないました。借入れ先は、土地抵当専門の金融業者(銀行や高利貸し)、そして有力で裕福な地主たち(高利貸しを営む者も多い)などでした。
同じ地主階級の内部で弱肉強食の闘争や駆け引き、上昇と没落が繰り広げられたのです。
その帰結は、当然のことながら、より少数の大地主の手許への土地と資産の集中です。
ベルリングィエリ農場の地主(アルフレードの父)は、潤沢な資産を背景に、仲間の地主相手に高利貸し(土地や屋敷を質にとって)でしたたかに肥え太っていく側に立っていました。
ゆえにまた、農民だけでなく、窮乏化し没落していく地主仲間からも深い恨みを買っていました。