したがって、イタリア北部では、ファシズムからの軍事的・政治的解放のために、穏健保守派から共産党までが統一戦線に結集して、民主化闘争を持続しなければなりませんでした。
ローマのファシスト政権崩壊から北部の諸都市の解放、そして新たな共和制憲法の制定まで3年ほどの年月を要しました。
この解放闘争のなかで、ムソリーニはふたたび捕らえられ、今度はすぐに処刑されてしまいます。退き時を間違えた独裁者の愚かにして哀れな最期です。
一方、保身のために策謀をめぐらせた国王ですが、その変わり身の速さと政治的曲芸(綱渡り)の巧みさが災いして退位させられ、しかも王室と王政自体も廃棄されてしまいます。
王家は、もともとははサルデーニャの田舎公爵の家系、「辺境の王」でした。
ところが、リソルジメント(19世紀後半から末にかけてのイタリアの政治的統合運動)のなかで、運よく王に祭り上げられたのです。
とはいうものの、やはり、その基盤の弱さを補うために、そのときどきで強者にすり寄るために、近視眼的な策を弄しすぎたようです。
もっとも、この王権が成立してからわずか60年あまりの歴史では、仕方がなかったのかも?
しかも、立ち回りが巧みで、わずか数年前には、ムソリーニとともにローマ駅にヒトラーを出迎えるなんぞというのは、やはり軽薄に過ぎました。
だれにも惜しまれずに退位し、王権そのものも葬られてしまいました。
全イタリア市民によるレファレンダムによって圧倒的多数で王政の廃絶が選択されました。
その直後の総選挙で選ばれた制憲議会は、イタリア国家を「勤労市民による共和制の国家」と規定する、当時の西ヨーロッパで最も進歩的で民主的な憲法をつくりあげました。
さて、エミーリャ地方でもファシストはしだいに追いつめられ、表舞台から消え去り、民衆による追及や糾弾を逃れようと身を潜めました。
しかし民衆は、受けた虐待への恨みを忘れません。民衆は武器を手にとって自ら解放闘争を展開しました。
つまり、ファシズム期につくられた制度を解体し、ファシストと徒党を組んだ政治家や役人、そして経営者や地主を追い立て、糾弾したのです。
そして、力関係の変化のなかで、部分的ではあれ、土地改革(地主制の解体)が実行されました。
この動きの一部が、この作品の冒頭で描かれた、1945年秋の民衆のファシスト狩りの動きです。
それにしても、ひとたび民衆が勇気をもって立ち上がるや、ファシストの権力は幻想のように脆く崩れ去ってしまいました。しばらく以前には、この権力は鉄のような強固さをもって人びとを押しつぶし、虐殺していたのに。
「王が王であるのは、人びとが彼を王として畏怖し臣従するからだ」という見方がありますが、人びとの意識と社会関係に対する態度・行動スタイルが変われば、どんな専制も崩壊するのでしょうか。
おそらく、この意識、あるいは社会関係の変化は、まずなによりも民衆を覚醒させ、その勢いに直面した支配装置の担い手の士気を阻喪させ、自己意識や優越感を打ち砕いてしまうようです。
村の少年さえ銃を取って、ファシストに協力した官憲や地主を狩り立てようとするのです。