その槍玉になったのが、アルフレードでした。アルフレードは、隠れていたところを銃を持った少年に見つかり、農民たちの糾弾の場に引き出されてしまいました。
アルフレード自身は穏健でリベラルな個人でしたが、ファシストを利用して農民を搾取し抑圧した「横柄な地主階級」の一員として、民衆の非難の的になってしまいました。
そして、少年に小突き回されたあげく、村の広場で武装した農民に囲まれ、糾弾の場に立たされます。
おりしも、そこにオルモがこの地区の解放闘争の指導者として帰還したところでした。オルモはアルフレードを「民衆裁判」の被告とします。そして、農民たちは地主階級の搾取や横暴さについて次々に指弾していきます。
このシーンには、弦楽四重奏でもできそうな田舎楽団(管楽器もあった)が登場し、演奏とオペラのような演出で「民衆裁判」を演出します。
粗野で無学な農民たちに「わかりやすく」権力の仕組みや地主支配の不当性を訴えるためでしょうか。それとも、ベルトルッチはわざとおどけて芝居がかったシークェンスを描いたのでしょうか。
それにしても、こんな紛糾の場面にも楽団や音楽、そして歌劇調の裁判が登場するとは、イタリア万歳!
しかし、それから数十年を経てみると、キリスト教民主党が極右とかマフィアとかヴァティカンと結託して政権をたらい回しにする、腐敗した政治構造ができ上がってしまいました。
こうして、かなり異様な雰囲気のなかでオルモとアルフレードは再会します。
今述べたように、オルモはアルフレード糾弾の先頭に立っています。その非難の言葉が紋切り型のスローガンのようで、なにやら滑稽です。
おそらく、どこかでオルガナイザーによって教え込まれたか扇動されたようです。
この場面は、まるでオペレッタのように演出されています。
それは、ファシズムからの解放の直後のイタリアの世相を表しているようです。
民衆裁判のさなか、パルティザン(正規の解放軍)の地区指導者の一行がやって来ます。彼らの目的は「住民の武装解除」です。
ファシストの暴力とそれに対する解放闘争のなかで、イタリア社会のいたるところに銃や火薬などの武器がもち込まれることになってしまいました。
しかも、連合軍とドイツ軍・ファシスト残党との大規模な戦争(武装闘争)の嵐が、シチリアからサレルノ、ナポリ、ローマ、そして北部へと吹き荒れました。
戦争およびファシズム独裁の被害から市民社会と経済活動を立て直すためには、まず「平和と秩序」が必要です。
ヨーロッパと日本では、17世紀から数百年かけて、市民社会から武力の駆除を達成してきました。これが「近代化」の最も重要な意味ではないでしょうか。
いまだ達成できていないアメリカ合衆国の悲惨な状況を見ると、ヨーロッパ人や日本人の賢明さと努力の意味が身にしみます。
民主化統一戦線は、解放軍の各部隊や各細胞に民衆の武装解除、つまり武器の回収を指示し、また各地での行政活動の再建を指令しました。
というわけで、エミーリャ地方の町や農村でも、武装解除・武器の除去が進められました。
あの、アルフレードを捕まえて「男を上げた」少年は、自分の権威のよすがとなっている銃を放棄することをいやがりました。けれども、解放軍に無理やり取り上げられ、泣き喚くことになりました。
さて、民衆裁判では、アルフレードは地主の地位を剥奪され、土地所有権を否定されました。
オルモはその「判決」を受け入れるようアルフレードを説得しますが、軽く拒否されてしまいます。
さあ、ここで幼い頃からのケンカ友達の復活です。ののしり合い、小突きあい、押し合い、……。
それから三十数年後、すっかり爺さんになった2人は、やはり寄り添いながらケンカを続けています。
この作品は重厚長大な映画ですが、配役もまた重量級です。
主人公のオルモはジェラール・ドパルデュ、アルフレードはロバート・デニーロで、ことにデニーロは、優柔不断で繊細なお坊ちゃん役を見事に演じきっています。
祖父役はリチャード・バートン。
そして、アッティラ役は、鬼気迫る怪人物を演じさせたら右に出る者はいないと言われた、ドナルド・サザーランド。狂気を抱えた残忍なファシストを演じて、圧倒的な存在感。
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