それでも、20世紀はじめまでは、地主たちは自分の農場ではたらく農民たちを自分の所有財産である一群の住宅(村落の形をなしている)を割り当てて住まわせ、夜間や休日の外出を厳しく規制していました。集落を外壁で取り囲み、門に施錠したのです。
村落の圃場(耕地の区画)ごとに地主が異なる中世の領主制とは異なり、資本家的経営者が、村落とその周囲一帯の農場を(まるで工場内のように)まるごと家父長的に支配する仕組みができ上がっていたのです。
これとよく似ているのは、17世紀から20世紀まで続いた、デンマークやドイツ東部、東欧の「ユンカー経営」すなわち農場領主制(Gutswirtschaft)です。
農民が暮らす住宅群は、大きな農場では20家族以上が暮らす街並みをなしていて、中心部には教会や集会場、広場などがありました。
小さい農場は数家族からなる住宅群ですが、こうした小さな農場は市場の淘汰圧力を受けて大農場に吸収されていきました。
オルモたちが暮らす住宅街は、大きな農場のそれでした。
こうした農民への地主による束縛は1920年代には影を潜め、地主=農民関係はさらにドライなものになり、地主による搾取や労働強化はきつくなり、農民の集団的抵抗や闘争もまた激しくなる一方でした。
ロンバルディアやエミーリャ地方の農民のあいだには、いち早く社会主義思想や労働組合運動が浸透しました。というのは、この地方では早くから「資本=賃労働」の階級関係が形成されていたからでもありました。
そして、経営者どうしの苛烈な競争のなかで、地主階級のなかにも脱落者・破産者が続出していました。
1910〜20年代のイタリアは、社会の大がかりで急速な変動を経験しました。
都市とその近郊では大規模な機械制工場が続々出現し、農業でも機械化と経営規模の拡大、つまりは土地の少数者への集中、中小地主の没落が目立つようになりました。
都市では大工場を中心に労働組合が結成され、勤労民衆のあいだに社会民主主義思想が浸透。その影響は農村にもおよび始めていました。
すでに19世紀末には、社会民主主義者が結集してイタリア社会党PSIが組織されました。この政党は、穏健な改革主義派とマルクシスト・グループという2大潮流の対立と分裂に悩んでいました。
20世紀になるとマルクシストが多数派を形成するようになりました。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各国の社会民主主義政党は、「労働者階級の国際的結集」を旗印に結集して「社会主義インターナショナル」を組織しました。
ところがやがて、ヨーロッパの諸強国が世界市場をめぐって敵対し、ついに第1次世界戦争が始まると、社会主義インターナショナルは分裂します。
各国の党は、「国益の増進こそ労働者の利益」というプラグマティズムから、自分の国家を支援し、戦争に協力するようになりました。
それぞれの国の世界市場での地位が高まると、労働者階級への分配も増えるという「厳然たる事実(リアリズム)」の前に、空虚な理想は吹き飛んだのです。
マルクスも含めた社会主義者たちは、ヨーロッパの住民や諸階級が多数の国民国家に分割されながら政治的に組織されている、という事実に対する政策や理論を、結局何一つ提起することはできなかったのです。