その後、オルモを執拗に狙うアッティラに対して、アルフレードは何とか地主の権威をちらつかせることで、かろうじて阻止し続けます。
しかし、ある日オルモは、オルモ父娘を嘲弄するアッティラを村の仲間を率いてやっつけてしまいました。アッティラは復讐鬼となります。
その後、ファシストの報復を恐れた父娘は、別れ別れになって逃亡せざるをえなくなります。
やがて、アルフレードは、オルモを執拗に探して破壊と乱暴をはたらくアッティラを見つけます。そこで、ついにアッティラを面罵して解雇と追放を通告します。
怒りに駆られたアッティラはファシストを率いて、村中で焼き打ちや破壊を繰り広げ、オルモの仲間だった農民たちを次々に虐殺していきます。
じつは、1940年代になるとファシストの残虐さや凶暴さがイタリア各地で目に余るようになりました。
市民は陰になり日向になり彼らに軽蔑のまなざしを送ったり、抵抗やサボタージュ(妨害のための破壊活動)を仕かけるようになります。
パルティザンや左翼の抵抗運動も日増しに強くなっていきます。
ファシストの権威は急速に崩れ去っていきました。あとはもはや、威嚇と暴力によって政治的支配を維持するだけです。
国際情勢や国内の雲行きの日和見に長けた国王、ヴィットリオ・エマヌエーレ3世は反ファシスト派と連絡を取り、しだいにムソリーニ追い落としの策謀に加わるようになっていきます。
1943年夏、連合軍がシチリア島に上陸したのをきっかけに、ファシスト党は崩壊。ムソリーニは退陣、その後幽閉されてしまいます。
9月にはローマにバドリオ首班の新政権が成立、直後、連合国と無条件の講和条約に調印します。
これでイタリア軍は連合国に降伏し、連合国と同盟を結びます。ところが、またたくまにドイツ軍がムソリーニを奪い返し、政権の座にすわらせたうえで、イタリア全土を制圧してしまいます。
連合軍はサレルノ、ナポリ、アンツィオをめぐってドイツ軍とすさまじい戦いを続けました。
が、ドイツはアンツィオで敗れるとローマからもすぐに退却して、北部まで戦線を縮小します。
というのも、ヒトラーの突撃隊に救出されたムソリーニは、北イタリアに政権を樹立し、ドイツ軍の支援を背景に、ファシスト党の残党をかき集めて統治を復活させようとしていたからです。
とはいえ、このムソリーニ政権はナチスに全面的に操られるマリオネットでした。
それでも、民主化や解放への動きに対しては頑強に抵抗しました。