私たちは今ここで、エスパーニャ帝国のバブリーな(泡のような)膨張と崩壊の歴史を追いかけていることになります。
エスパーニャ王権は、ネーデルラント、イングランド、フランス、イタリアの有力都市国家群などとの戦争を、ときどき訪れる短期間の停戦や和平をあいだに挟みながら、16世紀のはじめから17世紀の半ば過ぎまで、なんと140年間くらいのあいだ続けていました。
全ヨーロッパにまたがる戦争による濫費は、カルロスとその息子、フェリーペ2世、孫のフェリーぺ3世、さらにひ孫のフェリーぺ4世まで、あしかけ4代にわたってまるまる続いたのです。
他方で、権威を誇示するための宮廷での贅沢奢侈による浪費、豪邸や宮殿建設にも惜しみなく巨費を投じ続けました。
今日のエスパーニャには、その時代に建設された美しく広壮な城館や邸宅、素晴らしい絵画などの芸術作品が夥しいほど数で残されています。
当然のことながら、王室の財政は何度も破綻することになりました。
とりわけひどかったのが、カルロスの時代とフェリーペ2世の時代でした。
ときおり、わずか数年訪れる和平な期間の税収やラテンアメリカから送られた貴金属は、過去の巨額の借金の返済に回して、やっとのことで次の借り入れ(高利で償還期限が短期)の条件をどうにか取り繕うというありさまだったのです。
それもかなわず、ついに支払い停止宣言、つまり当時の王室の「自己破産宣言」をすることもありました。
しかも、域内産業、商業の育成には失敗し、むしろジェノヴァなどの域外商人を優遇し(王室への借款の貸し手だったから)、都市の商工業者から過酷な税を取り立てたため、王国内はすっかり疲弊していました。
他方で、王国内の貴族身分は免罪特権をもっていました。そのため酷税の重荷は、あげて都市の商工業者と農民の肩にのしかかったわけです。
そういうわけで、成功した商人はすぐに商業から隠退し、金で領地や身分を買い取って、貴族身分になりたがったのです。これではほかの地域と対抗できるほど強力で富裕な貿易商人階級は成長できません。
域内の強力な商業資本が成立して王権と結託することが、域内での製造業育成の条件なのです。これでは、域内の産業は零細なままで、域外商業資本への従属状態が続くしかありません。
そして、農業も停滞し、むしろ後退が起きていました。
ラテンアメリカから流入する財宝の大半は、戦費に消えるか、王室や有力貴族の贅沢(大規模建築や芸術、高級家具や什器)や植民地に輸出する工業製品の代金に費やされました。
アメリカ植民地への輸出用製品は、北イタリアのほか、敵対するネーデルラントやフランス、イングランドから大量に購入していたのです。
エスパーニャは、気前のいい大盤振る舞いによって、敵側の商工業をせっせと育成していたのです。
国家の中央政府が国内商業・産業に戦時統制をかけるなどという仕組みは、ようやく19世紀に現れたにすぎません。国家が存在しない「牧歌的な風景」でした。