1640年には、ポルトゥガルに独立を許してしまいました。
このときハプスブルク王権は、20年間以上も「ドイツ30年戦争」にかかわっていて、しかも、イタリアとネーデルラントのゴタゴタにも、引き続いて足をとられていました。王室財政が極端に悪化していきます。
そこで、域内のアラゴン王国とカタルーニャ王国に増税や戦争への協力を無理強いしたところ、大がかりな叛乱が起きてしまいました。
この叛乱にカスティーリャ王の主要な軍隊を派遣したのですが、その隙につけこんで、イングランドと同盟を結んだポルトゥガルの貴族連合に「王権独立」をしてやられてしまったのです。
しかし「同盟」とはいえ、このとき事実上、ポルトゥガルはブリテンの「従属国」になってしまいました。以後、この屈辱的な関係は200年以上も続くことになります。
余談になりますが、リカードの「自由貿易経済学」が提唱する「比較優位理論」は、ポルトゥガルの産業と経済がイングランド資本に従属し続けることを美化して擁護しています。そういう従属の起源は、このできごとに始まったようです。
話題を戻します。
しかも、エスパーニャ王国の分裂と混乱に乗じて、フランス国境のカタルーニャやピレネー方面には、フランス王と貴族の同盟軍が侵入してきて、破壊と掠奪のかぎりを尽くします。カスティーリャ王権としては、手の出しようがありません。
見栄えの立派なエスパーニャの没落はその後も止まりませんでした。
1700年には、エスパーニャ王室ハプスブルク家の王位継承者はついに途絶え、翌年、王位はナバーラ家のフェリーぺ5世が獲得しました。フェリーぺは、それまでハプスブルク家が敵対していたフランス王ブルボン家の分家の血筋だったのです。
こうして、エスパーニャに対するフランス王権の影響が強まることになりました。弱体化したエスパーニャはフランス王権に従属しがちな王国になっていきます。
そして、20世紀のフランコ独裁政権が登場するまで、エスパーニャは国家としての統合が欠如した分裂状態が続きます。フランコ政権の統合はファシズムによる無理やりの締め付けにすぎませんでしたが。
今日でもヴァスクやカタルーニャ地方の住民が、何かにつけてエスパーニャからの分離・独立を要求ないし標榜するのは、もともと「国民」としての統合を経験したことがないという経験=歴史が背景にあるからです。
さてそうなると、18世紀はじめには、イタリアやネーデルラント、さらにアメリカ大陸の広大な植民地にも、ブルボン王朝の支配の手がおよびかねない気配になりました。
こんどは、一躍ヨーロッパの超大国になるかに見えるフランスに対して、ブリテン、ネーデルラント、オーストリアなどが、気まぐれな同盟を組んで、立ち向かうことになったのです。強くなりそうな者の足を引っ張る。これこそ、勢力均衡思想の真髄です。
それから1世紀以上にわたって、大西洋貿易とアメリカ大陸植民地をめぐっては、エスパーニャとフランスの連合に対して、イングランドを筆頭とする連合が敵対・対抗する構図ができ上がりました。