そのとき、マーティンはダコスタ神父を教会に訪ねていた。だが、ダコスタは出かけていて、盲目の少女、アンナがいた。
彼女は先日、マーティンと出会っていたそのときアンナはパイプオルガンを演奏していた。
パイプオルガンは聖堂などの教会建築と一体化している。無数のパイプが教会建物の壁面いっぱいに設置され、さらに天井部にも伸びている。そして、石造りで天井が高い教会や聖堂の建物の構造と空間自体を楽器の共鳴装置組み込んだ、壮大な楽器だ。つまりは、建築物全体が楽器であり、演奏会場そのものが楽器の内部にあるということになる。聴衆は楽器の内部にいるのだ。
まさにオルガンは、神のカノン(範律・精神)を会衆に伝え、かつ彼らを包み込む神のオーラを具現するオルガノン(装置・肉体)なのだ。たぶん、オルガンという名称も、そのことから由来しているのだろう。
オルガンの何段にも配置された鍵盤(キイボード)は、オーケストラの各パートの楽器の音域をすべて奏でられる。コントラバスの低音域もフルートの高音域も出るのだ。
マーティンが最初にアンナと会ったとき、彼女はトランペットの音域が出なくて困っていた。
じつは、マーティンはパイプオルガンの優れた演奏者だった。一目でトランペットのパート音域を奏でるようにするレヴァーボタン――鍵盤台の下や横に設置してある――が外れているのを見つけて、直したという経緯があった。
この日、アンナと会ったマーティンは、その後オルガンの調子はどうかと尋ねた。アンナは、まだ具合が悪いから、ダコスタ神父を待つ合間に調整してほしいと頼んだ。
礼拝堂に入ったアンナは、オルガン鍵盤の前に座ると弾き始めた。そこにダコスタがやって来た。そして、柱にもたれたマーティンが、オルガンの調べを聴いているのを見つけると、近づいて「教会には来ないでくれ、と言っただろう」と食ってかかった。
アンナは険悪な2人を取り成すように、割って入り、「先日、この人がオルガンを直してくれたのよ。今日もお願いしたの」と告げた。
すると、そこに刑事たちが現れた。ダコスタ神父に暗殺事件捜査への協力を申し入れに来たのだ。マーティンは、刑事と顔を合わせないようにオルガンの鍵盤の前に座った。
ダコスタは、アンナを姪だと刑事たちに紹介した。刑事は、オルガンの前にいる若者が気になった。アンナが「オルガンを調整してくれているのよ」と説明した。
刑事が名を尋ねると、マーティンは本名を告げた。
ダコスタは司祭室に行って話をしようと言ったが、刑事は、この見知らぬ男が気になったので、オルガンの調整を見たいと言ってそこにとどまった。何か疑いを抱いたのかもしれない。
で、マーティンは音程を調律すると、バッハのオルガン曲を演奏し始めた。並々ならぬ腕前だった。アンナはうっとりと聴き入り、ダコスタは驚愕を顔に表した。刑事たちも、これなら本物のオルガン調律師だと納得して司祭室に向かった。
た
この場面では、IRA武装旅団の無慈悲な暗殺者だった若者が美しい音楽を理解し演奏できるのだ、というパラドクスを描いている。このシーンが提示するものは何か。
マーティン・ファロンが、才気煥発で、感受性豊かで教養も知性も備えた若者であるがゆえにこそ、反乱派の武装闘争に「大義」を見出し、闘争にのめり込んでいかざるをえない、北アイルランド社会(ブリテンとアイアランドとの関係)の社会状況を描き出しているのだ。
その頃まではブリテンの支配と抑圧がそれほどに無慈悲で、その兵士たちを無慈悲に殺すことに切実に「正義」を感じるほどに、カトリック系アイアランド人たちは追い詰められていたのだ。
それが、1960年代から80年代の状況だった。
もとより、マーティンにも、ごく普通の若者らしく批判精神や反抗精神を備えていた。だが、北アイアランドでは多くの若者たちが、ヨーロッパのほかの地域でのように、職業や学校などでのキャリアを積む機会も、ここでは奪われていた。
騒乱に明け暮れる地方では、安定した企業経営を保証する平穏秩序もなければ、ビズネスチャンスもないから、工場進出や投資の余地もない。そうなれば、雇用の機会もない。教育を受ける意味も余地もない。
つまり、若者たちにとっては、まともな仕事にも就けずに不満を鬱積させていくしかない。そして、目の前には、カトリック系の民衆が抑圧されている現実がある。まさに血なまぐさい闘争だけが、鬱積した憤懣の吐け口となるしかない現実があった。
テロリズムを担う者たちを育ててしまう環境は、今も昔も変わらないようだ。
だいたいの若者は、IRAのメンバーになってもせいぜいシンパとして、デモや集会に参集するくらいかもしれないが、なかには戦闘員になり、そのなかで頭角を現していく者もいる。