映像物語は以上で終わり。
さてここで、作品の原作者ジャック・ヒギンズの作風と物語の特徴についてあれこれ考えてみよう。
まず彼の作風について。とはいっても、作品数が多いので、このサイトで取り上げた2作品をとっかかりにしよう。
ジャック・ヒギンズの主要な作品は、この2作品に見られるように、「政治スリラー(軍事的冒険譚を含む)」に属するものが主流だ。
『黒の狙撃者』でも『死にゆく者への祈り』でも、 《 一方に暗殺者、他方にもとは有能な戦闘員だったが今は平穏を求める男 》 という2人の対照的な人物が主人公になっている。そして、どちらの側も闘争の政治的目的に対してシニカルになっている。
『黒の狙撃者』では、KGBによってマインドコントロールされて、人格を多重化された暗殺者、トーマス・ケリー(コヒーリン)が登場する。彼の場合には、1人の人物のなかに――平穏・誠実を愛する人格と兇暴・狡猾な人格という――2つの人格が並存して、それぞれに自分の行動を律する規律や価値観を持っている。
この人物に対抗する、もう1人の主人公がリーアム・デヴリンで、彼はもとはIRAの優秀な戦闘員だった。だが、誤爆によって罪のない一般市民を殺傷してしまったことから、大義=政治的目的のための闘争の正当性を疑い、ついにはそれを投げ捨て、組織から離脱した。そして武力闘争の限界、無意味さを身にしみて思い知ったがゆえに、今は心から平和=平穏を求めている。
しかも、この2人は一時期、深い友情を築いたことがある。
この2人が、やがて、アイアランドで再会したことをきっかけとして、ソ連とブリテンとの謀略戦に巻き込まれ、敵対していくことになる。
ところが、トーマス=コヒーリンは、ソ連KGBに裏切られて破滅的な行動に出る。リーアムは、ブリテン情報当局からの依頼を受けて、また自分の過去を清算するためにも、トーマス=コヒーリンの無謀な暗殺計画を阻止しようとする。
リーアムにとっては、政治的目的のために暗殺を繰り返すトーマス=コヒーリンの姿には、過去の自分が重なる。ゆえに、トーマスの改心を求めてやまない。
『死にゆく者への祈り』では、IRAの暗殺者だったマーティン・ファロンと、かつてはSAS隊員だった神父マイケル・ダコスタが相まみえる。
マーティンもまた誤爆で子どもたちを殺傷してしまったことで、IRAの戦線を離脱する。だが、逃げ込んだロンドンで、ギャングどうしの抗争に巻き込まれて暗殺を引き受ける羽目に陥った。そして、暗殺をきっかけに、ダコスタ神父と出会う。ダコスタは、マーティンを暴力の世界から引き離して、彼に精神的救済=平穏をもたらそうと努力する。
このように、2つの作品は、人物の配置の構図がよく似ている。
さらに、物語の背景には、アイアランド紛争という政治的=宗教的な暴力・闘争という状況がある。この状況にバイアスをかける要因は、「黒の…」ではブリテンとソ連とのレジーム対抗(冷戦構造)であり、「死にゆく…」ではロンドン裏社会での抗争」である。
そして、どちらの作品にも、主人公の1人が神父・司祭という職業についていることが共通している。アイアランド紛争の主要な政治的背景が、同時にカトリック対プロテスタントの宗教・信仰での敵対と結びついているからでもある。
ジャック・ヒギンズは、抑圧され虐げられた側に共感を示しつつ、彼らが反乱・抵抗を引き起こす理由・根拠を認めている。だが、憎悪と暴力の連鎖をもたらす闘争の形態には強い疑問・批判を向けている。