同じ夜、マーティンはジェニーの住居に帰った。そこは、ミーアン・ファミリーが経営するホテルのスイートルームだった。ジェニーは、ビリーの横暴からジェニーを救ったマーティンにすっかり心を許していた。美貌のジェニーに対して、ほかの男たちのように劣情を示さない姿勢も気に入っていた。マーティンは、イーストロンドンのアイリッシュタウンではめったにお目にかかれない礼儀正しく教養を備えた紳士だった。
そういうこともあって、その夜、ジェニーはマーティンと打ち解けた会話をした。
そのとき、マーティンはジェニーに質問した。
「何で、こんな仕事を続けているんだ。ジャックの言いなりになって」
「ジャックには恩義があるの。
私は14歳で娘を妊娠、出産して、その子は今4歳になったんだけど、たった1人で子どもを抱えて路頭に迷っているところをジャックに拾われたのよ。生活の面倒を見てもらったの。その恩義に応えるためよ。
それに、いつでも会いたいときに娘に会えるし。娘はジャックに保護されているのよ」とジェニー。
要するに、娘を人質に取られているわけだ。
そのとき、ドアの向こうに訪問客が来た。マーティンが出てみると、葬儀場の支配人だった。マリガンのメッセイジを伝達しに来たのだ。
「明日の朝、公園でマリガンが会うと言っている」と。
支配人はマーティンの情報をIRAに売ったことから、今はIRAのメッセンジャーになっているようだ。つまり、弱みを握られてしまったのだ。
翌朝、マーティンは公園の木陰でマリガンを待った。
やがてマリガンがやって来た。マリガンはマーティンを呼び寄せて、話しかけた。
「ずいぶん探したよ。なぜ、急に黙って姿を消したんだ。12年間もいっしょに闘ってきた仲じゃあないか。
さあ、武装旅団に戻るんだ。IRAの了解を得ることなく、旅団を抜けることは許されない。旅団は、お前が裏切ることを恐れて、武器庫や基地を別のところに移したんだぞ」
マーティンは答えた。
「俺が旅団を売ると思うのか・・・、ばからしい、そんなことはない。もう殺しは厭になったんだ。放っておいてくれ。」
「だめだ。俺と一緒に戻るんだ。さもなければ、俺はお前を殺さなければならない」と迫るマリガン。
「好きなようにするがいい」と言い捨てて、マーティンは背中を見せて歩きだした。殺したければ、背後から勝手に撃つがいい、という意思表示だ。
マーティンはブリテン支配からのアイアランドの独立のために命がけで闘ってきたがゆえに、誤爆で大ぜいの子どもを殺してまって虚無感に陥ってIRAを離脱した。だが、そのことで生きる意味をも失ってしまったのだろう。マーティンはカトリックだから、自殺するわけにはいかないが、誰かに殺されるのならそれでいいと思っているようだ。
マリガンは懐から銃を抜いて、マーティンを狙った。だが、ついに引き金を引けなかった。去りゆくマーティンを見つめながら、マリガンは涙を流した。そのまま、引き返した。
監視役としてマリガンを公園の外で待っていたシャバーンは、なぜマーティンを殺さなかったのかと問い詰めた。だが、マリガンは彼女を振り払ってホテルに戻っていった。