ロベルタは、イーストハーレムの小学校を拠点にして子どもたちにヴァイオリンを教えてきた。1980年代のはじめから11年間。
当時、現在のニューヨークとは違って、そこは低所得層――黒人やヒスパニック系、アジア系の移民が多数派――が暮らす街区で、開発からは取り残されていた。犯罪や麻薬事件、暴力事件が頻発する地区だった。
その後、地区の治安を向上させるための市民運動が活発化して、ガイド役ヴォランティアとか巡回組織などが組織され、目に見えて安全な場所に変化していった。1990年代半ばには、観光客も集まるようになり、都市環境整備のための投資も回って来るようになった。今では、高級住宅地に変貌している。
だが、ロベルタが音楽教室を運営している頃は、子どもたちの生育・教育環境としてはかなり劣悪だった。
そんな状況のなかでも、ヴァイオリン教室の子どもたちはけなげに生きていた。
10年前の教室第1期生のルーシー。彼女の祖母は家の近くで夜に暴漢に襲われて殺されてしまった。それで、しばらくヴァイオリンの練習が手につかなかった。
ジャスティンはギャングの銃撃戦に巻き込まれて死んだ。
子どもたちの生活場面のすぐ近くで犯罪や暴力が横行していた。
そして1990年、ロベルタが個人レッスンをしてるレイチェル――12歳くらいか、たぶん教室の卒業生――は、ヴァイオリンに天性のすぐれた素質を備えている。ものすごい努力家でもある。だから、ロベルタは彼女をジュリアードの奨学生として推薦した。合格は確実だった。ところが、レイチェルの家庭は崩壊してしまった。
父親が妻(レイチェルの母)にひどい家庭内暴力ドメスティックヴァイオレンスをふるったために、別居することになってしまった。父親の暴力から逃れるために、母子は遠くに引っ越すことになった。連絡先がわからないように。
というわけで、レイチェルはせっかくつかみかけた、音楽家への道につながる幸運を手放すことになった。
ヴァネッサは両親が不仲で別居することになった。住居が定まらず、今日は母親の家に戻り、あすは父親の家に帰るという具合。そのために、ヴァイオリンを教室に持参できないこともしばしば。
だが、一方で、ラモンの両親のように、貧しいなかでも子どもたちには、家庭の事情が許す限り最高の――とはいっても、お金があまりかからないささやかな――教育環境を与えようと努力する人びともいる。
ロベルタは、はじめは小学校での課外バイオリン教室を指導する臨時教員として採用され、自分たち母子(母子家庭)の生活の糧を得るために、この仕事を始めた。ところが、いく度も壁にぶつかり、とりわけ自分が教える子どもたちが置かれた生活・家庭・教育環境の厳しさを目の当たりにしていくことになった。彼女自身、世の中を学んだ。
それでも、「どんな子どもたちも目標も持って努力すれば、ヴァイオリンが上手に演奏できるようになる」という信念は変わらなかった。今では、その信念には豊かな肉づけがされている。音楽教育の社会的役割、創造的役割を目的意識的に求めるようになった。
「貧困地区」「犯罪多発地区」の子どもたちには、偏見の目が向けられる。「努力しない、向上心がない、規律がない…」と。だが、置かれた環境からして、学習する意欲が阻害され続けるために、真摯に努力して知的・感性的能力を高めて自信を身につけたり、自らに目標を掲げて努力する意味や成果を味わうチャンスが奪われているのだ。
ヴァイオリンをつうじて、目標のために努力し、自己抑制し、自身の変革を試みる意味、その成果を体感して誇りや自信を身につけるチャンスをつくり出す。まさにアメリカの政策や公教育制度が取りこぼしてきた側面に光を当てる役割を果たしてきた。
たしかに、ロベルタがそういう機会を提供できる子どもたちの数は限られている。だが、少なくても、着実な成果であって、条件や機会さえ与えられれば、どんな子どもたちも知的・創造的能力を形成できるという実績を証明するものには違いない。