映画の物語では、事件の時間的順序や経緯が脚色されていて、正確な流れがつかめない。そこで、私の想像を交えて、物語を進める。
さて、学校の休暇が明けて、ロベルタはヴァイオリン教室での指導を再開することにした。ところが、教室に集まった生徒たちは、ヴァイオリンを持ってきていなかった。ロベルタが子どもたちに、いったいどうしたのか尋ねた。すると、
「先生、あなたはクビなってしまうんだって。この教室は閉鎖されるんだって」――実話では、1991年の1月のことらしい。
市の教育委員会では教育予算に大ナタを振るったのだが、最初に切り捨てられるのは、音楽・美術などの情操教育・芸術教育の、しかも正課ではなく課外コース。毎年100人以上、11年間で1400人もの生徒を指導した実績があるのに、ロベルタは市からの1枚の通達書類で解雇され、教室は閉鎖されることになった。
ロベルタはものすごい剣幕で校長室に駆け込んだ。
だが、ジャネット(校長)自身、市の教育予算の方針が知らされるや、それを撤回させるために採算抗議の電話をし、交渉を申し込んできたが、ことごとく撥ねつけられていたのだ。
ヴァイオリン教室閉鎖に対しては、保護者からも抗議の声が相次いだ。
映画では、ロベルタが保護者を集めて抗議と対策の検討のために集会を企画・主催することになるが、実際には、校長の采配で保護者への広報誌――日本のPTA通信にあたる――でいち早く「ヴァイオリン教室の閉鎖」のニュウズを知らせた。抗議の声を上げ、かつまた抗議集会を開いて教室存続のための対策を議論するためだった。
この集会で、とりあえず当面の教室の運営費とロベルタの給料をまかなうために慈善コンサート( benefit concerts
)を定期的に開催することを決め、コンサートへの協力を市民に呼びかけることにした。
やがて、この市民運動はマスメディアの注目を呼び、NY州の各種のメディアによって報道され、イツァーク・パールマンやアーノルド・スタインハート、そしてアイザック・スターンらが続々と協力を申し出ることになった。カーネギーホールのコンサートディレクターのイザイアー・シェファーも協力を申し出た。
こうして、1993年10月にカーネギーホールでの慈善コンサートが企画実行されることになった。
けれども、映画の物語では、ここまでの動きは脚色されて、かなりドラマティックなものに仕立て上げてある。その物語に戻ることにしよう。