そんなある日の夜、ニックとレクシーの勉強を見ながら、ラザーニャをつくっていたロベルタにチャールズから電話が入った。受話器でチャールズの声を聞いたロベルタはすっかり喜んだ。だが、チャールズが切り出したのは、離婚手続きだった。
彼女はチャールズを説得して、何とかよりを戻そうと懸命に言い募ったが、結論は動かなかった。
ドアの向こうで、すっかり取り乱して泣く母親の様子を、ニックは心配した。
チャールズとの離婚が決まった。ロベルタは落ち込んで、何もかもが手につかなくなってしまった。出だしから多くの壁にぶつかったヴァイオリン教室を続ける気力も失せてしまった。
言うことをきかない生徒たち、理解のない教員と保護者たち、もういやだ、続ける自信がない…
翌朝、ロベルタは小学校に出勤すると、校長のジャネットを探した。辞意を伝えるつもりだった。ところが、ジャネットはすこぶる忙しい。
今も、学校に昼食代だといって50ドルも持ってきた児童――すばしこそうな、高学年の黒人の男の子――を問い詰めていた。その男の子は、母親は仕事を持っていて収入があるから、50ドルをもらっても大丈夫なのだ、と説明した。その言葉でジャネットは経緯を察した。
「だから、あなたはお母さんの財布から50ドルくすねたわけね。それが正しいことなの?
あなたにはお話しすることがあるわ。こちらにいらっしゃい!」
ジャネットは男の子を連れて校長室に向かった。
そのジャネットにロベルタは声をかけた。
「あの、大事なお話があるのですが…」と。
「見たとおり、私は今忙しいの。ほかにもやるべきことがあるのよ。順番を待ってちょうだい!」と言い残して、ジャネットは歩き去っていった。
こうして、朝一番で辞意表明をする機会を失ったロベルタ。手持ちぶさたで、仕方なくヴァイオリン教室の部屋に入ってみた。
すると、グァダルーペがたった1人で椅子に腰をおろして思い詰めたような顔をしていた。今は、彼女の授業時間のはず。なのに、なぜ?
歩み寄ったロベルタは「どうしたの?」と問うた。
「私はすこしもヴァイオリンがうまくならない。足が悪いから、強い姿勢がとれない。楽器に力がうまく伝えられない。だから一番上達が遅い(うまくならない)…だから、もうヴァイオリンをやめようか、と…」
涙を浮かべた深刻な眼差しでロベルタに訴えかけた。
「ヴァイオリンて難しいのよ。なかなかすぐには上達しないわ。
ねえ、イツァーク・パールマンという偉大なヴァイオリニストのことを聞いたことがある?
その人もねえ、足が不自由なの。でもね、世界でも最優秀と評価されて活躍しているヴァイオリニストなのよ」
と、イスラエル生まれの、世界最高峰の1人と言われる名ヴァイオリニストの名をあげた。
イツァーク・パールマンは幼児期に小児麻痺を罹患して足が不自由になった。だが、才能とものすごい努力でヴァイオリンの名奏者になった。若くしてアメリカに来演し、アイザック・スターンに認められてジュリアード音楽院に入学、その後めきめき頭角を現してアメリカで最高峰のヴァイオリニストの1人となり、さらにヨーロッパでも高く評価を受けた。そして、ついに母校ジュリアードの教授になった。
指揮者としても成功し、自らヴァイオリン・ソロを弾きながら協奏曲の指揮をする「弾き振り」では、つとに有名だ。
ということで、ロベルタは《グァダルーペに諦めずに困難に負けない強い望みを持ち続ける大切さ》を説いた。それは、挫けそうになっている自分を励ます言葉でもあった。生徒に諦めるなと説く以上、自らも踏みとどまって教室指導を続けなければならない。
「私は自分の足でしっかり立ちたいけれど、足が悪いので力強くは立てないわ」と心細げに語るグァダルーペにロベルタは言った。
「人をしっかりと立たせるのは足だけではないのよ。心(意思と気持ち)が人を自立させるの。わかった?」