生まれたばかりの頃には息子がごく普通に育ってくれればありがたいと思っていた母親だったが、ヴィトゥスの天才児ぶりを見てきたヘレンは最近では欲が膨らんできた。息子の才能を育て上げるために、そろそろ英才教育を施そうと燃える「英才教育ママ」に変身しつつある。
その夜帰宅したヘレンがイザベルに腹を立てたのは、クラシック音楽を学んでいるヴィトゥスにイザベルが下品で低俗な音楽(ロック)を教え込んで羽目を外したと腹を立てたからだ。
いったいイザベルはヴィトゥスにどんなベイビーシッティングをしたのか、と腹立ち紛れに訝るヘレン。ヘレンは、レオと外出して留守にしているあいだのできごとを知りたがった。一方的な欲目判断でヴィトゥスへの影響を心配したということだ。
「どんな様子だったか知ることができるよ」とレオが言った。 「じつは、この棚にヴィディオカメラをこっそり仕かけておいたのさ」
レオは小型のディジタル・ヴィディオカムを取り出してきた。
そのカメラには、ヴィトゥスとイザベルがすかっかりロックコンサートに没頭している様子が映っていた。モップをマイク代わりにして歌い、激しく体を動かして踊りまくるイザベル。それを見て満面の笑顔で即興でピアノを演奏するヴィトゥス。
ヘレンは激怒した。愛息をこんなに喜ばせた少女に、母親として強い嫉妬を覚えたのかもしれない。この夜を最後に、イザベルはベイビーシッターから永遠に追放されることになった。
しかも、翌日から、ヘレンがヴィトゥスの子守り兼教育係を担当することになった。レオがフォナクシスで高い地位の管理職になって収入が増えたので、ヘレンは「専業主婦」どころか、家事は家政婦を雇って、自分はヴィトゥスの英才教育マニジャーになることにしたのだ。
ヴィトゥスは、すっかり好きになってしまったイザベルと会えなくなったことに、ひどく腹を立てた。そこで、恐ろしく高い知能を悪用して、両親をきりきり舞いさせてやることにした。
まず自分の寝室に閉じこもって食事やピアノの練習をボイコットした。母親が宥めても脅しても、部屋に閉じこもって出てこなかった。そして、レオが帰ってきて、ヴィトゥスを何とかしようと相談するために母親が外に出ていくと、今度は玄関の鍵と鎖をかけてしまった。
両親は完全に自宅から閉め出されてしまった。「やられた!」と怒りまくって、ヘレンとレオはヴィトゥスを怒鳴ったり宥めたりして、何とか玄関の施錠を解こうとするが、ヴィトゥスは完全に無視。平然とした顔で、ピアノの練習を続けた。
まったく、悪知恵の働く幼児である。それにしても、自分の言い分(異議申し立て)を明白な形に表そうとするヴィトゥスの想像力には恐れ入る。
もっとも、言ってみれば親のエゴで近視眼的に英才教育漬けにしようとするヘレンの幼児性もまた困ったものだが。ヴィトゥスの知能と大人の幼児性とのこの対照的な描き方は愉快だ。