祖父の遺言を果たしたあと、ヴィトゥスはいよいよ自分の目標に向かって飛び立つことになった。まずエアフィールドに向かった。
祖父が所有していた単発軽飛行機が駐機しているエアフィールドの場所は、祖父から教えてもらってある。そのエアフィールドは、周囲を金網フェンスで囲まれている。そして、ゲイトは厳重に施錠してある。
だが、ヴィトゥスはフェンスによじ登って、簡単に乗り越えてしまった。スイスの片田舎の飛行場だから、それほどセキュリティは厳重ではない。
祖父の飛行機は、整備工場を兼ねた格納庫の前に置いてあった。整備士が1人、飛行機のエンジンを整備していたが、ヴィトゥスの接近にはまるで気づかなかった。
ヴィトゥスは祖父の軽飛行機に乗り込み、祖父の家から持ってきたイグニションキイを回した。エンジン音に気づいた整備士がヴィトゥスの操縦を止めようとしたが、遅かった。
これが冒頭の場面の直前までの経緯である。
ヴィトゥスは、祖父のシミュレイターで練習したとおりに、40メートルの滑走で離陸して急上昇し旋回し、稜線を越え、谷間を縫って飛行した。彼の目的地は決まっていた。
ヴィトゥスが目標とした場所は、ジーナ・フォイスの邸宅だった。
「私のためにピアノを演奏したくなったら、またおいでなさい」彼女は以前、ヴィトゥスにそう告げた。今、ヴィトゥスは自分の目標としてピアニストになろうと心を決めていた。だから、ジーナの指導を受けたいと願っていた。
そう決心するために、つまり、母親から押し付けられた目標としてではなく、自分が心から欲する目標としてピアノ演奏を選択する(位置づける)ために、ひとまずは「普通の子ども」の生活を送ってみたかった。それは、彼にとって一番大事なもの、すなわちピアノ演奏の才能磨きや演奏欲求を自己抑制することになった。だが、そうしてみて、心が落ち着くくと、ものすごくピアノが弾きたくなった。
そして、家族の財政的危機を解決したのち、ピアノの練習に集中するために、ここに飛んできたのだ。
室内にいたジーナは、飛行機のエンジン音が近づくと、ドアを開けてテラスに出た。すると、丘の向こうから軽飛行機が飛んできた。飛行機は速度を落として降下してきた。ヴィトゥスが操縦している。ジーナは歓迎の笑顔を見せた。
それから数か月後、天才児ヴィトゥスは12歳にして、有名な交響楽団ツューリッヒ室内オーケストラとの共演をおこなうことになった。会場は満員だった。イザベルはヴィトゥスのデビュウ公演のために大きな花束を用意していた。
画面でヴィトゥスが演奏したのは、ローベルト・シューマンの「ピアノコンチェルト イ短調 : Klavierkonzert in A Moll 」。
これは、主演――12歳のヴィトゥスに扮する――テオ・ゲオルギュウが、ツューリッヒの体育館を一時的に改装した室内楽ホールでツューリッヒ室内楽団との実際の共演の録画録音デイタによるものだという。
本当に天才児は実在していたのだ。テオがいてこそ、この物語の映像化が実現したのだ。これは、当たらずとも遠からずのテオの物語なのかもしれない。
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