さてヴィトゥスは、幼かった頃に祖父に作ってもらった「飛行機」――「飛行翼スーツ」というべきかもしれない――をもっていた。それは、幼いヴィトゥスが自分の身体にまとうコステュームのようなもので、彼は左右の腕に結びつけた両翼をひらひらさせて、野原を駆け回ったものだ。
その後、ヴィトゥスは、祖父にもっと大きな飛行機をつくってもらった。
ある真夜中、両親が寝静まってから、ヴィトゥスはその飛行機をヴェランダに持ち出した。そして、ヴェランダから外を見渡した。闇の底に沈んでいる地面までは数メートルはあるりそうだ。ヴェランダに立った彼の姿は、あたかも飛行機の翼を身につけてヴェランダから飛び立とうとしているかに見えた。
やがて、ヘレンは大きな物音で目が覚めた。何かが衝突したような音だった。
彼女はヴィトゥスの寝室に行ってみた。ベッドは空だった。ヴェランダへのサッシュが開いていた。まさかと思いながら、ヘレンはヴェランダから下の地上を見回した。
何と、飛行機の翼を身につけたヴィトゥスが地面に倒れていた。
翼をつけたヴィトゥスが飛び降りて、地面に激突して大きな衝撃を受けて意識を失っているように見えた。
急いで駆け寄った両親は、ヴィトゥスを静かに助け起こして救急車を呼んだ。
ヴィトゥスはすぐに市内の大病院に搬送されて救急医療を受けた。さいわい、肉体的な傷害の程度は軽く、生命に別条はなかったが、頭部を強打していて、意識がなかなか回復しなかった。強い脳震盪を起こしたもようだ。
意識の回復後、医師が検査をすると、記憶力や意識に若干の障害が見られたという診断結果だった。
やがて、脳震盪の衝撃が収まってみると、ヴィトゥスの知能はごく普通の子どもの程度になっていた。IQは120だという検査結果が出た。
脳神経科の女性医師が知能検査の結果を伝えると、母親のヘレンはひどく落胆した。
「あの事故のあとでこの結果なら、むしろ喜ぶべきではありませんか。標準よりも知能は高いのですよ。なかには、事故で知的障害に陥る子どもだっているのですよ。それを考えれば、あなたは幸運を喜ぶべきです」
医師はヘレンを励ました。ただし、過剰な期待を抱くことを強く戒めた。
しかしながら、それまでものすごい才能を持つ天才児を育てることに喜びを感じていたヘレンは、なかなか事態を受け入れられない、諦めきれない。一番ショックだったのは、ヴィトゥスがピアノの才能のかけらさえも見せなくなってしまったことだった。
いつかヴィトゥスの天才が復活するのでないかと期待していたが、数か月もこの状態が続くと、仕方なくヴィトゥスを「普通の子ども」と同じ教育環境に戻すことにした。