ヘレンはヴィトゥスの英才教育について、地元のコンセルヴァトワールでのピアノ指導の限界を感じたことから、ヴィトゥスを「ピアノの天才児教育」の専門家として有名な女性ピアニスト、ジーナ・フォイスの門下に入れようと考えた。
ジーナは世界的にとびきり高い評価を受けたピアノ指導者で、親や本人が希望してもなかなか面会できないし、まして入門のための審査の機会を設けてもらうことは、「夢のまた夢」だという。しかし、ジーナがヴィトゥスの評判を知ったことと、やり手のヘレンが金に糸目をつけずに人脈を開拓したせいか、ヴィトゥスはジーナと会うことができた。
だが、自分の人生の方向を勝手にきめてしまうヘレンのやり方に、ヴィトゥスは反発を覚えるようになっていた。そろそろ反抗期、つまりは人格的自立を求め意識する年代に差しかかっていたのだ。
というわけで、せっかくのジーナとの面談テストの場で、反抗的な態度を見せた。
ジーナが「では、あなたのピアノの演奏を見せてちょうだい」と言っても、拒んだ。
「いいえ、ぼくはあなたのピアノの演奏が見たい。お願いします。…ぼくはピアニストよりも獣医学者になりたいんです」と頑なに言い張って、演奏を拒否した。審査を受けにきた少年の態度としては、まことに生意気で不遜な態度である。
ヘレンはヴィトゥスの不躾な態度に憤った。
だが、逆に、ジーナ・フォイスは、本音のところではヴィトゥスのその態度と姿勢が気に入ったようだ。
「あらそう。では、私にピアノの演奏を見せたくなるまで待ちましょう。ヴィトゥス、そういうい気持ちになったら、ここに来ていいわよ」と言い置いて、ヴィトゥスと母親を送り出した。
帰りの車のなかで、ヘレンは「恥をかかされた」とヴィトゥスに怒りをぶつけた。いつの間にか彼女は、天才児、ヴィトゥスの人生を自分勝手に設計することが当然だ、というメンタリティになっていた。彼女は自我を肥大化させて、ヴィトゥスの英才教育を仕切ることに愉悦と優越感を見出すようになっていたのだ。
■祖父のアドヴァイス■
母親との軋轢で、しばらくヴィトゥスは祖父の家に行くことがかなわなかった。
けれども、ある雨の日、ヴィトゥスは祖父と森のなかを散策する機会に恵まれた。ヴィトゥスは祖父に自分の人生の将来について悩みを相談した。
「…そうか、ピアニストにもなりたくない、家具職人も獣医もいやか。将来、何になりたいかわからないんだな」
「ぼくはどうすればいいんだろう」
「そうだな。人生の見方を変えるためには、一番大事なものを投げ捨てて見るんだな。一番大事なものを捨ててしまえば、きっと新しい何かが見えてくるもんだよ」
祖父はそう言って、自分の大事にしている帽子を小川の向こう岸まで投げ飛ばして捨ててしまった。
「自分の一番大事なものを投げ捨ててみる」ことをヴィトゥスは真剣に考え始めた。
彼にとって一番大切なものは何か。それを投げ捨てるということは、いったいどういうことか。そして、そうした場合にヴィトゥスは今、何を求めるべきか、何がほしいのか、何が見えてくるのかを。