二人は阿弥陀堂の縁に腰かけて、遠くを見渡した。
すると、阿弥陀堂の堂守をしている老女おうめが戻ってきた。
「おや、どなたさんでありますか?」と訪ねてきた。
「・・・上田せいの孫の孝夫です。このたび村に帰ってまいりましたので、ご挨拶にうかがいました」と孝夫は答 え、「これは妻の美智子です」と紹介した。
おうめは二人を阿弥陀堂の一間だけの畳敷きに上げて、お茶を用意した。 「きのうなのお湯で、ぬるいかもしれませんが・・・」と言って、使い古した茶碗を取り出し、保温ポットの湯でお茶を淹れた。一度沸かしたお湯はポットに入れて、飲み終わるまでそのまま使い続けるのだ。質素すぎるほどのおうめの生活ぶりが見えた。
その後の会話のなかで、おうめは孝夫の祖母よりも10歳年上で、今年で96歳になることがわかった。 年齢の話題になるとおうめは、「90歳を過ぎてからは、人が言ってくれる歳が自分の年齢だと思うことにしているでありますよ」と恬淡と語った。
身寄りもなく孤独な老女がこの阿弥陀堂守になったいきさつには、いろいろと悲しくやり切れないことも数々あっただろうが、おうめはごく自然の成り行きとして受け入れているようだ。
孝夫が挨拶のしるしとして持参した茶菓を入れた紙袋を差し出すと、おうめは「これはこれは、ご丁寧なことであります」と感謝し、阿弥陀様の方に向かって拝みながら「おせいさん、あんたの孫の孝夫さんが来てくれましたよ」と礼を述べた。
茶飲み話として「奥さんは今度、診療所の先生になられるそうでありますなあ」とおうめが2人に語りかけると、「ええ、ちょっと病気をしたので、月・水・金の午前中だけ診療するということで・・・」と美智子は答えた。
それまで東京に暮らしていた孝夫は、新人賞を取ったのちはパッとしない売れない作家。妻の美智子は、大学病院で癌・腫瘍治療を専門とする優秀な医師だったが、激務が続いたところに流産をきっかけでパニック障害に陥り、ずっと苦悩していた。都会暮らしに行きづまっていた2人は、美智子の心の病の療養も兼ねて信州の山里に移り住むことにしたのだ。
美智子は高い業績を評価されていたので、無医村の谷中村の診療所に非常勤医師として緩い条件で勤めながら、療養を進めることにしたのだ。それでも、奥信濃の片田舎の人びとにとっては、有能な医師が診療所に来てくれることは、大変にありがたいことだった。
千曲川と高社山の連峰と尾根の丘(飯山市)
数日後、診療所の非常勤医師となる美智子の歓迎会が村の小学校の教室で催された。孝夫・美智子を主賓として、村長や助役など主だった役場職員や各地区の代表などが参集した。
宴会が進むと人びとは、最先端医療の臨床研究をリードしていた優秀な医師である美智子が、売れない作家で「花見百姓」のような孝夫の妻となった経緯を知りたがった。
「花見百姓」のように漠とした夢を追う孝夫の世間離れした大らかさや穏やかさが気に入ったのだ、と美智子は答えた。この地方では、花見百姓とは、桜の花に見とれて農作業を忘れるような甲斐性のない男を意味するらしい。
歓迎会の帰り道、千曲川堤防の小径を歩いていた美智子は緊張感のせいか発作のようなパニック症状を起こした。孝夫が背中をさすったあとで美智子は深呼吸して症状はおさまった。2人が歩く道の背景には、千曲川と高社山の連峰が見えていた。