物語は奥信濃の山里での季節の歩み、自然のリズムに沿って進行していく。映像は季節ごとの山野の風景の移ろいと村人の営みを描く。
春のはじめの雪解けシーンの冒頭に続いて、春真っ盛りに孝夫と美智子が阿弥陀堂におうめを訪ねる場面。周囲の木々は芽吹きが終わって明るい黄緑色の若葉に覆われていた。そして、戸障子を開け放った阿弥陀には春の風が吹き込み、ときおり桜の花びらが散り飛んでいた。
美智子が診療所に通い始める頃には、田んぼに水が張られ始め、やがて田起こしと田植えが始まる。孝夫は近所の農家を手伝って、泥にまみれて稲の苗を植えることになった。
山の中腹から千曲川河畔まで折り重なるように連なる棚田には、水が張られ稲の葉が成長していく。谷中村――実際には飯山市瑞穂福島地区――の山あいの棚田の美しい風景、その季節の移り変わりが描かれる。四季をつうじての里山の風景の推移とともに、季節の移ろいのリズムに沿って農作業(労働)をおこなう村人の生活、農村風景が描かれている。
▲瑞穂福島の棚田 畔と段差を石垣が支える
▲孝夫と美智子が歩いた、小菅神社奥宮への参道
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まもなく雨が続く梅雨になり、カエルの声が谷間に響き渡る。
稲の葉が伸びるのにともなって、周囲の木々の緑は深みを増し、陽射しは強くなっていく。孝夫と美智子が歩く道沿いの樹木の陰影は深くなり、風景の明暗の差がきわだっていく。
二人は近隣の山林や田野を散策して回るようになる。
近所の子どもたちと知り合い、神社の境内での鬼ごっこをする。原作では、過疎化して高齢化だけが進む山村の寂しさが描かれているが、映画では山村の将来を担うであろう子どもたちとの交流を描いて、山村の行方に少し希望があることを示している。
夏になると、美智子は孝夫をおともにして、渓流釣りを楽しむようになる。深い森のなかの渓流で美智子は偶然の幸運によって大きなイワナを1尾釣りあげた。家に戻って囲炉裏でそのイワナを焼いて食べた。
あらかた魚を食べたとき、美智子は「骨酒」にすることを思い立った。
「本当は骨酒は魚を丸ごとのまま酒に浸けるんだよ」という孝夫の指摘を無視して、肉が少なくなったイワナを酒に浸し、二人で食べた。 自分の思いのままに動き出そうとする意志力が美智子に少しずつ戻ってきたようだ。
美智子は的確な診断や村人への深い配慮によって村人の大きな信頼を得るとともに、少しずつ医師としての自信というか意欲を回復していった。二人は村の人々とふれあい、自然に抱かれて暮らしていくうちに、いつしか生きる喜びを取り戻していくのであった。
やがて山村に夏が訪れる。そして先祖の霊を迎える盂蘭盆の時期になった。
六川地区の女性たちは阿弥陀堂に集まって念仏講をおこなう。女たちは車座になって、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら、ヒトの拳よりも大きい珠をつないだ大きな数珠を回す。堂守のおうめが、彼女らが食べる料理をつくって振る舞うことになる。