神社の秋祭り、神楽鈴の舞の横笛と太鼓の音は村中に響き渡り、丘の上の幸田夫妻の居宅にも届いた。
床に伏していた幸田重長は、宵の風に乗ってきた祭囃子の音を聞きつけて起き上がり、障子戸を開けはなって神社の方向に向かって端坐した。煙草を喫しながら、じっくりと祭りの音を聞き取ろうとするしたようだ。衰弱し切った体ながら、端然と正座する姿は凛然としている。
まもなく死を迎えることを覚悟しているこの老人の心には、村の秋祭りの神楽鈴の舞楽の音を耳にして、どのような想いが去来したのだろうか。「ああ、これが最後に聞く祭囃子なのだ」と自分に言い聞かせたのだろうか。
病床の夫が起き上がり、外の風に当たっている気配を察して、妻ヨネが重永の横に来て夜風で冷えないように夫に丹前をかけてやった。
重長は細やかな気遣いをする妻に向かって言葉をかけた。
「今まで長いあいだ世話になったね(ありがとう)・・・」
いたわりと感謝の言葉を聞いたヨネは、感極まって涙をこぼしながら答えた。
「何を今になって(こんなときになって)・・・」そのあとに言葉が続かない。
ヨネには、強く意識を保っていられる最後のときになって、覚悟を決めて妻に感謝と別れの言葉をかけたように聞こえたのだろう。
「前から話してきたとおり、葬式はしなくていいから。その代わり花を一輪差してくれればいいから・・・」
祭りの夜は更けていく。
晩秋、錦繍に取り巻かれた正受庵
奥信濃の秋は兆し始めるや進み方は速い。やがて周の山と里は紅葉・黄葉に覆われるようになる。錦繍を帯びていく野山――信州の紅葉・紅葉季は晩秋の強い陽射しを浴び色鮮やかなので、「錦秋」よりも「錦繍」がふさわしい。
幸田老人の症状も重篤になり、床に伏したままで起き上がれないようになった。
それでも幸田の意識ははっきりしているようで、妻を枕元に読んで、部屋の障子戸を一枚開けさせて、紅葉が進んだ庭を見ようとした。色づいた庭の木々を眺めた幸田老人は、満足そうに微笑んだ。
晩秋の寒さを感じないわけではないだろうが、幸田は里山の自然のなかでその風景に寄り添う姿を貫きたいのだろうか。
重長は布団から手を差し出した。その手を握ったヨネに重長はやさしく声をかけた。
「それじゃあ、先にいくからね」
「ええ、そんなに長くは待たせませんよ・・・」とヨネは答え、夫婦は見つめ合い頷き合った。
それからまもなく幸田老人の臨終が訪れた。
床に伏ししだいに呼吸が弱まっていく幸田の傍らには、ヨネと美智子と孝夫がいた。そして、仕切りを取り外した次の間には大ぜいの村人が詰めかけ、幸田の最期を看取ろうとしていた。幸田の遺志で葬儀はおこなわないことになったため、幸田老人の知り合いたちはその臨終の場に立ち会って見送ろうと望んだのかもしれない。
幸田の最後の一呼吸を確認した美智子は、黙したままヨネに向かって静かに頭を下げた。静かで毅然とした最期だった。
居宅の床の間には、青磁の花瓶に淡い色の花が一本差されることになった。
通夜も葬儀もなく幸田を見送った孝夫と美智子は千曲川の川辺に下りて、孝夫がつくった笹舟を水面に浮かべて流した。これが、彼らなりの幸田への「たむけ」の形だったのだろう。
川岸に腰を下ろしたまま2人は語り合った。
「何も残さずに逝ってしまった」しみじみ語る孝夫。
美智子は臨終に立ち会った医師としての想いを告げた。
「わたし、幸田先生の最期の息は先生がご自分で止めたような気がする・・・」
数日後、ヨネは位牌代わりの木の名札を携えて阿弥陀堂を訪ねた。おうめに挨拶したのち、ヨネは須弥壇の傍らの壁板に、幸田重長という名を記した木札を懸けた。夫を阿弥陀堂に祀られる祖霊の列に加えたのだ。そして、おうめと顔を合わせた途端に泣き崩れた。
おうめは自分の両手でヨネの両手をやさしく包み込んで、ヨネの嗚咽を聞き取りながら慰めた。阿弥陀堂の外には、錦繍の盛りの時季を過ぎて寂寥感を増していく晩秋の奥信濃の野山の風景が広がっていた。