さて、自分の娘時代に病気がちだったことや長寿の原因がわからないというおうめの記事を読んだ美智子は、孝夫に小百合の病状に関する懸念を伝えた。
「小百合ちゃん、こんなこと書くなんて虫が知らせたのかもしれないわね」
微熱が続いていた小百合の胸部X線撮影で肺に影が見られたのだ。学生時代に発症した喉の肉腫が肺に転移したのではないかというのだ。そうだとすると、成長の速い肉腫だからただちに化学療法を始めなければいけない、と美智子は言う。
こういう症例は美智子の専門分野だ。美智子は言う。
「私は東京で小百合ちゃんと同じ症例を3回経験しているのよ。化学療法をどこまでやって、どんな薬と組み合わせたらいいかを知っているのよ。
町の総合病院の担当医は多分この症例の経験はないんじゃないかな。電話で話してみたら、私に治療に立ち会ってほしいって言ってたわ」
「だったら決まりだよ。あんたが総合病院に行って担当医と一緒に治療すればいいんだよ」と孝夫は慫慂した。
「迷ったら逃げるんじゃなくて、前に進んでみたら。もう恐慌性障害は治っているんだから」
けれども、ようやく恐慌性障害が治ったばかりの美智子は、体調に自信がなくてためらっている。
「できるかしら」
「できるさ、小百合ちゃんを治してやれるのは、あんたしかいないんだよ・・・それだけの腕をもった医者なんだよ。
俺が車で送り迎えするから、大丈夫だよ」
2人が窓の外に顔を向けると、谷の向こう側の尾根の山林風景が広がっていた。
町の総合病院で小百合を担当する中村医師は30歳前後の若い男性で、ここの医師になってから5年ほどになるという。中村は研究熱心で、美智子がこの種の肉腫治療について医学誌に発表した論文を読んでいた。謙虚な青年医師で、美智子には治療にさいしての経験不足の不安を隠さなかった。
「とにかく肺炎の兆候があったら、抗生剤で叩きましょう。」美智子は当面の治療方針を助言した。
青年医師は美智子に深い敬意を抱いているようだ。
「こんなことを言ったら失礼ですけど、先生はどうしてこの村なんかにいらしたんですか。・・・先生みたいな人はもっと医学の最前線での仕事を続けるべきなんじゃないかと思うんですけれど」
「中村先生から見れば、私は落ちこぼれに見えるんでしょうね。
いいのよ・・・落ちこぼれてみないと見えなかった風景というのがあるのよ。背伸びばかりしていて視野に入らない丈の低いもののなかに、実は大地に根をおろしている大事なものがあるのよ。
そのことに気がついてから、落ちこぼれっていうのも悪くないなって思っているんだから」つい不躾な質問をしてしまったと思って狼狽している中村に向かって、美智子は正直な心境を語った。
中村は問うてみても大丈夫だと思える人には、その人の生き方の本質に触れるような質問をいきなりぶつけてしまうことがあるようだ。
「私はさびしがり屋なもので、心を許せる人かどうかを試してしまう癖があるんです。申し訳ありません」
美智子と中村医師の信頼関係と協力はこうして深まっていった。
綿密な経過観察と緊急処置が必要になるかもしれない場合には、中村と美智子は泊まり込みの治療を続けることもあった。
2人の医師が心配した通り、小百合はまもなく重症の肺炎になった。ただちに集中治療室に移され生命維持のための緊急処置が施された。大量の抗生物質が投与され心肺機能が低下するとステロイド剤が用いられた。
ステロイド剤の副作用が心配だったが、「今は何よりとにかく患者の命を救うことが一番大事なのよ」は言い切った。