1950~1970年代までの先進諸国の経済成長は、エネルギー資源の基盤を――産業構造の転換に失敗したブリテンを除くと――石炭から石油に完全に移行させ、この石油資源の世界的な供給体制では、アメリカの多国籍資本が最優位を掌握するという、そういう仕組みの構築過程でもあった。
石油関連産業の構図は、この――18世紀から20世紀までの――300年間の世界経済の歴史の縮図ともいえる。
1970年代、世界の石油業界は「7人姉妹(セヴンシシターズ)」と呼ばれる巨大な世界企業グループによって支配されていた。7つの巨大石油コンツェルンのうち、5つまでは合州国の企業で、1つがブリテン企業(当時国有)、残りの1つはブリテンとネーデルラントが折半して資本支配する会社だった。
つまりは、この3世紀間の世界経済で覇権を保有した諸国家の「土俵入り」みたいな構図だ。そのシェアや影響力、技術力が、だいたい力の大きさの序列を表してもいた。
つまり、7割強をアメリカ資本が、2割をブリテンが、1割未満をネーデルラントが握っていた。
これらの会社群は、圧倒的な探鉱探査技術、採掘・プラント技術、生成加工技術、世界への供給ノウハウ、それゆえまた圧倒的な価格支配力を掌握していた。
ところが、北アフリカ、中東、南アメリカなどの石油産出国は、自国の領土内で採掘される原油資源なのに、合州国やブリテンの資本と政府のなすがまま、言い分丸呑み状態だった。
それでも、産油諸国でも、国民独立――「民族独立」という訳=言い方は現在では虚偽に近いので使用しない――、国民形成、非同盟運動などの進展とともに、石油資源への国家の統制、国有化を試みるようになった。
しかし、採掘・生産・精製・供給など、生産から世界市場への供給体系――つまり資本と技術、設備と販売経路――のほとんどを英米企業が支配していたため、その支配力は、個々の国家での国有化、国家統制では、どうにもならなかった。個々の国が抵抗しても、アメリカやブリテンの資本グループによって「各個撃破」されていた。
だが、産油諸国はしだいに同盟して政府間国際カルテルとしてのOAPEC、OPECを組織化・再編成し、ささやかな抵抗を試みるようになった。
産油諸国の国際的協調・協力体制を組織化しようとする動きは、1949年頃から始まっていたが、政府間の政策調整や協力は、参加国の主権の部分的制限や委譲をともなうために、なかなか実効性のある組織が形成されなかった。そして、アメリカやブリテンの政府や企業の圧力や懐柔策が、産油諸国の利害の差に巧みにくさびを打ち込んで、彼らの同盟や協調への動きを封じ込めていた。
そもそも、OPEC自体、パクスアメリカーナのヘゲモニー装置として、アメリカ政府の肝煎りで1960年に設立された。それは、産油諸国政府の独自の動きを牽制するために運営されるはずのものだったように見える。
ところが、第三世界での国民形成(国有化・国営化)運動や非同盟運動が活発化し、先進諸国とアジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域との格差、アメリカなどの多国籍企業の「横暴」「収奪」を批判する思潮や運動が力を獲得していった。
おりしも1967年、イスラエルとアラブとの戦争が再燃した。「6日間戦争」と呼ばれる。西側諸国に支援されたイスラエルの軍事技術の圧倒的優位の前に、アラブ勢力は1週間も立たないうちに、壊滅状態に陥った。
このとき、アラブの産油諸国は、OAPEC(アラブ石油輸出諸国機構)をOPEC(石油輸出諸国機構)とは別に組織し、イスラエルを支援するアメリカやヨーロッパ諸国に対して石油供給を大幅に制限した。
一時的に、ヨーロッパの経済と石油市場は混乱に陥った。ヨーロッパ諸国は、それまでのあからさまなイスラエル寄りの姿勢を少しだけ修正するようになった。各国内での世論の変化も背景にあった。
この経験で、産油諸国は、石油生産・供給へのコントロールが、国際政治のパウワーゲイムで優位を確保するための「有力な武器」になることを学んだ。