その頃、ロンドンのある画廊では、「絵画は金のため」と割り切った3人の画商(絵画ブロウカー)たちが、19世紀末以降の現代画家の秀作として画商業界で評判の高い一連の作品の写真を見ていた。どれも、すでに亡くなった画家の未発見の作品として、ごく一部の愛好家に高額で買い取られたものだ。
そのどれもが、ハリー・ドノヴァンの「作品」だった。「本来の画家」たちを凌駕する技法や発想で描かれている。
「贋作者」の才能と技能を賞賛しながら、この3人の画商たちは、この男を利用して「どでかい一儲け」をしようと画策していた。
それから数日後、3人の画商、アレステア・デイヴィス、イアン・イール、ヒガシ(日本人か?)はニューヨークにやって来た。訪ねたのは、ハリー・ドノヴァンの住居兼アトリエ。
おりしも、ハリーはオリジナル作品が完成しなかったため、作品の搬入が遅れたため、ある画廊から展示会をキャンセルされたばかりだった。
落ち込んでいるハリーを押しのけるように部屋に強引に入り込んだ3人は、あろうことか、「レンブラントの未発見の名画」を描いてくれと申し入れた。提示した報酬は、前金5万ドル、完成・引渡し時には50万ドルという大金だった。
画家がレンブラントで、報酬が55万ドルというとんでもない条件に面食らったハリーは、冗談だと思って腹が立ち、3人を追い返した。だが、帰り際、彼らの1人は真剣な商談だと言って、名刺を渡した。
オリジナル作品の制作にはいきづまり、片や贋作づくりでは目の前に大金の報酬をぶら下げられて、悩むハリーは、父親に会いに行った。ミルトンはいま、老人介護療養施設で暮らしている。父と息子は、その施設の緑地庭園を散歩しながら話し合った。
結局、ハリーは父親に悩みを打ち明けてから、レンブラントの贋作づくりを引き受ける決心を伝えた。ミルトンは反対した。そして、「もっと早くにお前をヨーロッパに修業に行かせるべきだったのに。それができなかった」と後悔を口にした。
ハリーは、この贋作づくりでは、レンブラントの作品や技法などの調査研究のために何週間ものヨーロッパ滞在が認められ、費用はすべて画商の負担となること、しかも報酬が巨額であることを父親に説明した。そして、その金で研鑽し、画業に専念して、いつかはレンブラントのようにエスパーニャのプラード美術館に展示されるような傑作を描きたいという願望を話した。
プラード美術館は、画家にとって世界最高峰の展示施設の1つなのだ。これまで、どんな傑作であっても、存命中に自分の作品をこの美術館に飾られた画家はいないという。
父親としてミルトンは、息子の先行きを深く心配したが、もう自分の手がおよばないという現実を受け入れるしかなかった。