さて、2人の貴族趣味の教授先生に捨て台詞を残して立ち去ったドノヴァンは、セーヌに架かる橋を渡っていった。カフェテラスを飛び出したマリエケは、ハリーに追いつくと、
「あんなに怒るなんて、まるで子どもみたい」 と冗談半分に軽くたしなめた。 「もう怒っていないさ。苛立ちをぶちまけて、気分はすっきりしたよ」 とハリー。
さらに話しかけようとするマリエケを抱き寄せると、ドノヴァンはいきなり口づけをした。驚いた彼女だったが、一瞬のためらいののち、彼の口づけに情熱的に応えた。
というわけで、2人の恋は瞬く間に燃え上がり、そのままマリエケが投宿するホテルに直行。熱い愛を交わした。彼女の部屋に行きつく前に、獣のように互いを貪りあう2人を見た、ホテルの老フロントマニジャーは、驚き入ってしまった。
翌朝、ハリーが目覚めると、マリエケはもう出かける支度を終えていた。そして、 「きょうはミラノに行くことになっているから急ぐの。鍵はこの部屋を出るときにかけていってね」
と言って、扉の向こうに消えた。
《父の肖像》を下絵に 「レンブラント作品」の画面の構図や人物の姿勢については、イメイジは固まった。だが、人物の風貌や表情などについては、構想がまとまらなかった。
いきづまったハリー・ドノヴァンは、街に出て、アメリカの施設にいる父に電話した。画家としての孤独も感じていた。
公衆電話に寄りかかりながら、クロッキー帳を片手に、受話器の向こうの父に「仕事」の進行状況を話して悩みを打ち明けた。いつのまにか受話器を肩と顎にはさんで、右手のコンテが動き出し、懐かしい父ミルトンの顔を描き出していた。まるで、レンブラントが親愛をこめて自らの父親を描いたように。 長距離国際電話での父との会話のなかで、ハリーの構想は固まっていった。
「この仕事の報酬が入ったら、2人でいっしょにヨーロッパ中の美術館を巡って回ろうよ」
ハリーの弾んだ声。だが、ミルトンは身体の衰弱が進んでいて、歩くこともかなわなくなっていた。それはもう無理だ、と息子に言おうとしたが、通話はすでに切れていた。明日をも知れない容態になったミルトンは、だた息子の行方を心配して受話器を戻した。
それが父子の最期の会話だった。ミルトンはそれからまもなく世を去った。
一方、絵のイメイジが明確になったハリーは、「ある男の肖像」の制作に没頭した。
まずキャンバスにコンテで父の風貌をレイアウトし彩色して、ミルトンの肖像を描き出した。それをいったん乾かしてから、それを下絵のようにして、新たにレンブラントの父親の風貌(のイメイジ)を描いた。さらに、この絵に上塗りして作品を仕上げた。
この物語では、レンブラントは肖像画を描くにあたって、通常、同じ画布に3回彩色塗布したということになっている。ハリーは、巨匠のこの作風に倣って絵を制作したのだ。作品の真贋鑑定でX線投射分析がおこなわれても、クリアできるようにしたわけだ。
こうして「絵画そのもの」は完成した。しかし、レンブラントの真筆らしく見せるためには、仕上げ加工」が必要だった。
まず、ドライヤーで乾燥させ、絵の具の揮発成分・気化油分を飛ばした。乾燥したが、まだ油絵の具の粘性がわずかに残る画布に、煤(屋内の黒炭)や埃を吹きつけ、摺り込んだ。さらに、保護布に包んでオーヴンに入れて225℃の熱で灼いた。この灼きを繰り返して2度おこなった。
これによって、画布や絵の具を酸化・熱劣化させ、光沢成分・油分をほとんど吹き飛ばして、300年以上の経年変化を体験させるのだ。これによって、画布全体がくすみ、盛り上がった絵の具の光沢が消えて細かなヒビが入った。
最後の仕上げは、ドライヴァーを突き刺して画布に穴を開けることだった。
贋作の引渡し場所はエスパーニャ北部で、そこでレンブラントの傑作が偶然発見される筋立てになっていた。
ドノヴァンがデイヴィスとイアン、ヒガシに絵を見せると、3人は想像以上の出来栄えに感嘆した。迫真の作品だった。
だが、デイヴィスは「署名がない」と苦情を言い出し、署名の書き込みを求めた。ドノヴァンは拒否した。署名がなければ「贋作詐欺」の犯罪構成要件は満たされない、この作品をレンブラントの遺作と評価して高額の代金を支払うのは、顧客の「自由な選択」によるものになるのだ、ハリーは説明した。
つまり、彼らからはレンブラントの絵だとは言い出だすことなく、レンブラントの真作だという評価は、鑑定家や絵画取引き業界の判定にゆだねるということだ。
デイヴィスは巨額を吹っかけるために、少しでも補強証拠となる要素を付け加えておきたいようだ。しかし、署名を求めるなら絵は引き渡さない、と突っぱねたため、しぶしぶ諦めた。