勇躍、ヨーロッパに飛んだハリーは、ネーデルラントやイタリア、フランス、エスパーニャの大美術館や図書館、資料館を巡り回った。そして、レンブラントの作品を片端から写真撮影したり、模写したり、あるいは研究書、作品集、解説書などを読み漁った。
ヨーロッパの美術館では、展示資料の閲覧の自由が最大限認められていて、通常、照明をたかない写真撮影とか模写は許されている。また、付属の資料館・図書館も公共図書館として自由に利用できる。
ハリーの目的は、「レンブラントの未発見の作品」としてどんな絵を描くかを決め、そのための題材・テーマや技法、構図などの構想を練ることだった。
調査研究の結果、「ある男の肖像」と」呼ばれる絵を再現することに決めた。
多くの研究書では、その作品は仕上げられたのち、1641年頃、ネーデルラントからエスパーニャに向けて船に積まれたが、航行中、海難事故のためにビスカーヤ湾(エスパーニャ北部沿岸)で消息を絶ったという。
レンブラント自身の習作や下絵などの資料から判断して、その絵は、当時の肖像画の通例どおりの構図で、ある老人が正面に対して心もち斜めの姿勢で、視線は正面に(画家)に向けられているという。
ところが、この老人はすでにほとんど視力を失っていて、その遠い眼差しは、彼自身が経験した「世の中」あるいは彼自身の遠い過去に向けられているようだ。つまり静謐で内省的な雰囲気をたたえた作品ということだ。この老人こそ、レンブラントの父親だといわれている。
レンブラントの絵画は、のちにドラクロワに絶賛され、ルノワールを「足許にもおよばない」という落胆=感嘆に追い込み、画力と才能の差を見せつけられたゴッホを絶望の淵に追いやったほど、飛び抜けた技法と発想、絵画思想を結晶化させているという。
250年のちに現れる晩期ロマン派や印象派の技法の先駆あるいはそれを凌駕しているとさえ評価される。
とりわけ、歴史を批判的に洞察する立場の人びとから高い評価を受ける傾向がある。彼の絵画作品に描かれている場面には、その歴史的背景や社会的文脈が畳み込まれ、人物の姿や表情、陰影は、彼らの心性や心情が如実に表現されているという。
ただし、レンブラントの作風は、当時の時代的制約を超出していて、時代の様式性や画家業界の約束事を打ち破っているため、スタイリストやスノビスト(貴族趣味礼賛者)にとっては「体制批判的」「革命派」ということで嫌われ、貶価されがちだという。
ハリー・ドノヴァンは、作品の構想を練り、描画に駆使する技法や構図、表情の効果などを探求するために、レンブラント作品のなかから参考になりそうなものの分析、部分的模写、素描を試みていった。