その夜ハリーは、商店街のレストランで壁に飾られている素人作の油彩画を目に留め、女主人から50ポンドで買い取った。それは、危ない取引きの「保険」となるはずのものだった。
深夜、ハリーは小悪党との落ち合い場所、テムズの支流に架かる橋に出かけた。危惧したとおり、小悪党は卑劣な裏切り行為に出た。その男は絵を受け取ると、手下をけしかけてドノヴァンを痛めつけさせようとした。かろうじて、手下をやっつけたが、小悪党は車で逃げ去っていた。
その悪党故買屋は、デイヴィスのところに絵をもち込み、高値で買い取らせようとした。その男は、デイヴィスの前で、巻いた絵を自慢げに広げてみせたが、デイヴィスに罵倒されてしまった。というのも、その絵は、ハリーがレストランの女主人から買い取った素人画だったからだ。
しょせん口先と腕力だけの小悪党には、絵画の取引きは畑違い、「雲の上の商売」だった。
一方、ドノヴァンはついに、古い知り合いに取引きをもちかけた。その相手とは、むかしハリーに「贋作の手法」を手ほどきした男だった。彼はいまや郊外の優雅なカントリーハウスに暮らしていた。あるいは、その支配人かもしれない。だが、彼はいまの地位と生活を失いたくなかった。それで、警察に通報した。
ハリーが会いに来るとまもなく、警察車が押しかけた。ハリーは追い詰められ逮捕された。捕まる直前、ドノヴァンは絵を焚き火に放り込んだが、警官があわやというところで絵を救い出した。
ドノヴァン逮捕のニュウズを見たマリエケは、預かった手紙を投函した。
逮捕されたハリーは強盗殺人の罪で訴追され、法廷に引き出された。先頃発見された巨匠の名画が強盗の手から取り戻された、ということで、事件は世界の美術界に大きなセンセイションを巻き起こした。
検察側の公訴(強盗殺人罪の)内容は、
レンブラント作「ある男の肖像」の「発掘」「買い取り」「販売」に携わったメンバーのなかで、仲間外れにされそうになったハリー・ドノヴァンが、ヒガシ氏を射殺し、名画を奪って逃走した、
というものだった。
逃走の途中で、鑑定に立ち会ったマリエケ教授を拉致した事件については、マリエケが拉致・誘拐で(被害者としては)告訴していないので、公訴事由には入らなかった。
ハリー(と弁護士)は、絵がハリー自身が描いた贋作で、自分の絵を取り戻しただけだ、ゆえにヒガシを殺す動機がない、という線で検察の主張に反論する方針だった。だが、完璧にレンブラントの技法や発想を駆使した、その絵は、皮肉なことにハリーの主張の根拠を掘り崩していった。
法廷が証人として召還した高名な鑑定家たちは、口をそろえて「間違いなくレンブラントの真作で、なかでも最高傑作だ」と証言した。その鑑定家のなかには、セーヌ河畔のカフェテラスでハリーと口論した教授、しかもレンブラント作品と思しき絵画に細かな瑕疵を見つけて、片っ端から退けるのを趣味=仕事にしている、あの鼻持ちならないスノビストがいた。
これは、笑えるシーンだ。
「贋作」だと証言したのは、マリエケ教授だけだった。
だが、検察側は、マリエケがハリーと恋愛関係があることを暴露して、彼女の証言の信憑性を打ち砕いた。こうして、裁判は、ハリーの描いた絵の「レンブラント真筆の最高傑作」としての名声と価値を吊り上げていく舞台となった。
画家のなかには精神の均衡を崩してしまい、巨匠の作品を自分の作品だと主張して世の耳目を集めようという輩があまたいるという。ハリーもその1人に数えられようとしていた。
しかも、休廷中、刑事被告人の収監房にデイヴィスが訪れて、ハリーを冷たく嘲笑したあげく、新聞を掲げて父ミルトンの死亡記事を見せつけた。父の死は、ハリーに大きな衝撃を与えた。
さて、検察側の攻勢で窮地に立ったハリー・ドノヴァン側は、ハリー自身がレンブラントの「ある男の肖像」と同じ絵を実際に描いてみせることで、この作品が贋作であることを証明すると申し立てた。検察側は異議を申し立てたが、先例があるということで、認められた。
ハリーは法廷で描画することになった。だが、限られた時間しか与えられなかった。
判事の決定に画商イアンは、ハリーの才能と実力を知るだけに、贋作づくりがばれるのではないか不安だった。だが、デイヴィスは、法廷が認めた限られた時間ではせいぜい下絵を描くのがせいぜいだから、言うとおりに黙って見ていろと、イアンを言い含めた。
というわけて、ハリーは、法廷に設置された檻房に入れられ、衆人環視のなかで画架に置かれた画布に向かって下絵デッサンを始めた。コンテや絵筆を動かすハリーの手順には、ためらいも混乱もなかった。またたくまにラフを描き、絵筆でミルトンの顔貌を描き上げていった。法廷の参集者は、その手際のみごとさに見とれた。
一方、イアンの心配は募るばかりだった。
ミルトンの肖像の部分ができ上がると、ハリーは迷いのない筆使いでレンブラントの父親の風貌を描くために、上塗りを始めた。ミルトンの顔貌はしだいに塗りつぶされ、別の男のものに変わっていった。
ところが、ミルトンの眼を塗り替える段に来ると、ハリーの手はためらいで何度か止った。父親の眼が何か大事なことを訴えていた。「もう贋作をつくらないでくれ。約束したじゃないか」父の声が心のなかに響いた。
突然、ハリーは絵のなかの男の両目を黒く塗りつぶし、「もうこれ以上はできない」と判事に告げた。これで、ハリー自身による「贋作の証明」の方途は潰えた。