アメリカの安全保障を担当する国家装置の「暴走劇」を描く作品は多い。今回は、「国家の安全保障」を理由に一般市民の生活や通信を監視・盗聴できるようにする法案成立のために「国民安全保障局(国家安全保障局)NSA」の担当部門が暴走し、やりたい放題に恐るべき犯罪をおかし、政治家や市民の抹殺と抑圧、監視に狂奔する物語を取り上げる。1998年作品。
ところで、ここでは nation / national を「国家」ではなく「国民」と訳しておく。日本のマスメディアでは「国民」を一般市民(一般民衆) people を表す用語として汎用されているが、もともとは国家という枠組みで政治的に組織された住民集合を意味する語だ。「国家の枠組み」には軍事力や軍事装置も含まれる。
その意味では、国民とは政治的排他性・排外性を帯びた用語なのであることに注意すべきだ。
原題は Enemy of the State で、「国家の敵」という意味になる。もっと具体的に言えば、「国家の安全保障にとっての脅威」ということになるが、それでも意味合いは抽象的で、どうとでも解釈できるものだ。
この作品では、国家の諜報組織は強大な権限を与えられ、しかも一般市民からは隠れて動くがゆえに、「国家の敵」あるいは「国家の安全保障の脅威」という名目をでっち上げれば、一般市民の権利や民主主義は容易に圧殺できる危険性をもつことが警告されている。
見どころ
「愛国心が卑劣漢の最後の逃げ場」だとすれば、その卑劣漢が政敵や反対者を誹謗中傷するときに使う常套句が「国家の敵」かもしれない。
現代アメリカでは、ITテクノロジーの発達によって、政府や民間の機関による市民生活の監視は容易になり、人びとのプライヴァシーは容易に侵害されうる状況になっている。治安・犯罪抑止や安全保障を理由に、いたるところに監視装置や情報収集装置を設置するようになっている。
この作品では、テロリストの脅威に対抗するために、法執行機関による市民の包括的な監視体制を構築しようと狂奔するNSA(国民安全保障局)幹部の醜態が描かれる。彼は配下の組織を駆使して、反対派の政治家や邪魔な市民を、容赦も躊躇もなく抹殺する。
この映画で描かれる監視や盗聴は、実在する技術や装置を使えば、すべてが実行可能なものだという。
だが、そこまで市民の通信や行動の自由を規制し、プライヴァシーを侵害して、当局が守ろうとしているのは、「市民の自由が保障されるレジーム」なのか、それとも国家権力装置なのか。答えは明らかである。監視が市民の自由の抑圧である限り、目的は市民の自由の保障ではなく、現行の権力構造で特権を享受するグループの利益であるということが。
この映画は、数年後にブッシュ政権が強行するはずの政策を正確に予測した。「テロリズムの脅威」をスローガンにして市民社会の監視と統制を強化しようと意図する政権が現れれば、アメリカという社会は、少なくとも短期間に限れば、市民的自由を制限する全体主義的レジームに容易に移行する危険性に満ちた社会であることを描き出したのだ。
アメリカではすでに、通信手段の盗聴、監視カメラ網の設置、監視衛星システムなどを総動員して、市民の活動や情報のやり取りを監視するネットワーク装置は、物質的手段としては、すでに構築されているという。あとは国家が立法によって、市民の監視と自由の制限を実行する意思を合法化するかどうかで、事態の行方は決まるという。
実際、ブッシュ政権は空港での検査と監視を強化し、市民社会の情報監視体制を導入した。娯楽作品だとはいえ、提起した警告は的を得ていた。
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